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zoom RSS プリーモ・レーヴィ「溺れるものと救われるもの」

<<   作成日時 : 2016/03/09 17:16   >>

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筆者は自身の体験をもとにした「アウシュヴィッツは終わらない」を1947年に著した。体験が風化し、若者の理解がなくなってきたことに苛立ち、1986年に、この「溺れるものと救われるもの」を刊行、その翌年自死してしまった。

筆者が講演したとき、ある若者が、筆者に収容所の見取り図を描かせ、今度こういうことがあったら、自分の言う通りにすれば脱走できると教えてくれたそうだ。 脱走,反乱、事前の逃亡がなぜできなかったかという、ステレオタイプの問いや、SSなどを悪者視する単純な見方が増えている。 筆者は読者に問う。ならば、なぜ、「事前に」、いま、逃亡しないのかと。

ハンナ・アーレントのアイヒマン評も有名だが、レーヴィ氏は、SSたちも普通の人々であり、ただ悪い教育を受けていただけなのだと語る。そして単純な善悪二分論でなく、もっと灰色の領域があるのだと。  たとえば、「初めて脅しつけ、侮辱し、殴りつけてきたのはSSではなく、他の囚人たち、つまり「同僚たち」だった。 彼らは新参者が新たに身につけた服と同じ縞模様の囚人服を身にまとった、正体不明の人々だったのである」そして、「おそらく「新入り」への敵意は、実質的には他のすべての不寛容と同じ動機から出ていたと思われる。つまりそれは「他人」を犠牲にして「我々」を強固にしようとする無意識的な試み、要するに抑圧されたものの間に連帯感を作りだそうとする試みであった」つまり被抑圧者の間で抑圧・被抑圧の関係ができていたのだ

レーヴィの語るナチの残虐さは、吐き気がするほどだ。 一車両に150人も詰め込み、そこには、もちろん水も食料も用意されず、排泄のための準備もなにもなかった。 収容所に着けば、検査のためと称してしょっちゅう全員を裸体にさせて集める。 排泄の場所は数少なく列を作らせたり、その機会もなかなか与えない。 そしてスープにはスプーンをつけず、犬のように舐めさせる。 すべて恥辱感をいかに持たせるかを工夫したものだ。 

「第三帝国では、上から押し付けられた選択、最良の選択は、最大の苦しみを与えること、肉体的、道徳的苦しみを最大限にもたらすことであった、ということである。「敵」は単に死ぬだけではなく、苦しみながら死ななければならなかたのだ。」

「犠牲者は死ぬ前に卑しめられる必要があった。それは殺人者が自分の罪を重く感じないためだった」

そして、焼却炉で焼いたら・・・・「愚かであるのと同時に象徴的な暴力の極端な例として、人体の邪悪な使用法」がある。生体、死体の医学的実験への利用、髪の毛の繊維産業での活用、人間の灰の埋め立て、断熱材、肥料、舗装砂利の代用・・としての利用などである。 


220頁ほどでたいして厚くないのに、なかなか読み進められなかった。 内省的、思索的で、文章が晦渋であるからだ。 だから理解できないところもある。


プリーモ・レーヴィ「溺れるものと救われるもの」(朝日新聞出版 2014.6.25)
1. 虐待の記憶
2. 灰色の領域
3. 恥辱
4. 意志の疎通
5. 無益な暴力
6. アウシュヴィッツの知識人
7. ステレオタイプ
8. ドイツ人からの手紙

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