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zoom RSS 吉浜忍「沖縄の戦争遺跡 <記憶>を未来につなげる」

<<   作成日時 : 2017/08/03 16:08   >>

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修学旅行で沖縄を訪れ、糸数アブチラガマに入った生徒たちは、一気に引き締まった顔になる。 戦争、それも沖縄戦の戦跡を訪ねる旅は、子どもたちに必ず戦争と平和を考えさせるきっかけとなる。 しかし、沖縄の戦跡は必ずしも良い管理状態にはない。  そして、モノをして語らしめると言っても、やはり語る人は必要なのだ。

かなり幅広い種類の戦跡と、それにまつわるエピソードが簡単に記されている。 
が、やはり、カタログをよむようで退屈な感じはある。
とおしてよむような本ではないのだろう。

そのエピソードで印象に残ったものだけ

・渡嘉敷村渡嘉志久の特攻艇秘匿壕
 ・・・結局特攻には出なかった。陸戦隊として戦うも、28日、集団自決した。 329人死亡

・チビチリガマ・・・川がしりきれ(チビチリ)ていることから。

・糸数のアブチラガマ
 ・・・「七月になると、戦争が終わったことを説得しに入った二人の住民や食料を探しに来た女性が銃で殺害された。結局、住民がガマから出たのは八月二十二日、置き去りにされた重傷患者と日本兵のリーダーが出たのは九月中旬であった」

・糸満市カーブヤーガマ
 ・・・「日本兵は腹をすかして泣き叫ぶ幼児を黙らせることを家族に命じ、奪われた黒砂糖を取り返そうとする幼児を撃ち殺した。 このことが口伝えでガマ内に広がり、日本兵にたいする恐怖と敵意が高まっていた」

・カーブヤーガマ
 ・・・「二十四日、すでに米軍の捕虜になった人が投稿呼びかけをしたことで、避難民や県庁職員は全員ガマから外に出た。米兵が保護された住民に「下に日本兵イマスカ」「日本ノ兵隊 生カシマスカ殺シマスカ」と聞いたところ、いっせいに「タックルセー(痛めつけろ)」と答えたという。「壕から出るな」と言っていた日本兵の一団はすでに別の出口から脱出して米軍の捕虜になっていた」

・シムクガマ
 ・・・ 「ハワイ移民帰りが「米軍は住民を殺さない」と住民を説得して、米兵と交渉したため、全員が助かった。現在、ガマの中には救命洞窟之碑が建っている」

・宜野座村で収容所
 ・・・ 「沖縄の人口の四人に1人は宜野座村で収容所生活を送っていたことになる」

・読谷村 「艦砲ぬ食ぇー残さー」碑
 ・・・比嘉正敏氏が作詞作曲した「艦砲ぬ食ぇー残さー」を四人の娘たちが結成した「でいご娘」として歌った。

・「さとうきび畑」は寺島尚彦さんが作詞作曲

・糸満市南北之塔
 ・・・アイヌ出身兵弟子豊治が塔名を刻む石柱を寄贈 「キムンウタリ」(山の仲間たち)
 ・・・塔の前で1981年から5年ごとに北海道ウタリ協会主催でアイヌ民族先祖供養祭イチャルバが催される。 
 ・・・沖縄戦で戦死したアイヌ出身兵は43人

・「「ひめゆり」の名前は、沖縄師範学校女子部の交友誌「白百合」と県立第一女学校の交友誌「乙姫」からとって「姫百合」となり、戦後ひらがなの「ひめゆり」になったという」





吉浜忍「沖縄の戦争遺跡 <記憶>を未来につなげる」(吉川弘文館 2017.7.1)

T 沖縄戦の経過と特徴
U 沖縄戦以前の戦争遺跡
V 沖縄戦の戦争遺跡
 一  飛行場
 二  司令部壕
 三  砲台
 四  トーチカ
 五  陣地壕
 六  監視所・戦闘指揮所・通信所
 七  特殊艇秘匿壕
 八  軍病院壕
 九  官公庁壕
 十  御真影奉護壕
 十一 住民避難壕(ガマ)
 十二 収容所
W 異例の塔・碑
X 沖縄の船倉遺跡 保存・活用の歩みと課題


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