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zoom RSS 吉見義明「草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験」

<<   作成日時 : 2018/02/27 08:34   >>

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30年も前の本だが、たいへん貴重な資料だとおもう。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、国内および召集されて戦地に行った人々の意識を、いろいろな調査や聞き取りによって明らかにしていくものだ。 

いわゆる「民衆」といってよい普通の人々にとって、日中戦争から太平洋戦争にかけて、戦争への反対は決して大きかったものではない。 中流以上の国民には、中国との戦いは徹底的にやって解決してほしいもので、「早期終戦と権益獲得を同時に願い、苦しい生活の中で、「国民の義務」だからとして、まじめに戦争に協力しようとする民衆の姿があった、というべきだろう」

しかし、いっこうに日中戦争は終わらず、生活は苦しくなり、そのうえ空襲にもあい始めれば、意識は変わってくる。

「戦争の見通しがつかないことや物価暴騰・物資不足に対する諦めの念と、「協力政治」による景気回復、「有利な」戦争終結の待望を内容とする両義的な心情がここにはあった」というべきで、そのような民衆の不満と期待の声に乗って新体制運動が進み、40年10月大政翼賛会が結成され、翌41年経済新体制が発足し、天皇制ファシズムは成立した。

「米不足など「不満の大爆発を抑えていたのは、勝てる戦争、正義義の戦争なのだから耐えねばならないとする民衆の戦争観と、新しい戦争に対する期待感であった。 41年12月8日の真珠湾攻撃と42年2月15日のシンガポール占領に伴う民衆的な熱狂は、その端的な表れであった」・・・このころはまだ昂揚していたのだ。


日本人は、米英には完敗したと理解しても、中国には負けた気がしない、どんなにアジアの民衆に酷いことをしても、その加害者としての認識は深まらない。 

もちろん、中国で戦争の実態に触れた兵士のなかには、戦争はもう嫌という厭戦気分も加害者の認識もある人はいる。 「[ある部落に放火し]命令により良民といえども女も子供も片端から突き殺す。惨酷の極みなり。 一度に五十人六十人、可愛いい娘、無邪気な子供、泣き叫び手を合わせる。 此んなに無惨なやり方は生まれて始めてだ。 ああ戦争はいやだ」 

しかし、多くは、「旧来の天皇観・国家観とともに、アジアに対する優越感・「帝国」意識は、崩壊をまぬかれ、敗戦後も頑強に生き続けていた」「六割強の人びとが、アジアに対する「帝国」意識を持ち続けており、戦争責任を感じていなかった」


ファシズムには人種差別がつものだが ・・・・

中国・・・・

「開拓民に対する教育は、国策移民として「国士的気概」を注入しているため、開拓民は現地の中国民衆を蔑視し「殴打、暴行、甚だしきは殺害するに至らしめ、而も之が集団的なる為」中国人は圧迫・迫害されたと感じている。日常的に起こっている開拓民と中国民衆との紛争・暴行事件は「多く開拓民側の不法に端を発し」ている」

「中国在留日本人の大部分は、中国人を「敗残者、被征服者なりとの偏見を以て・・・侮蔑し且傲慢不遜」である。このような観念は、日清戦争当時から培われたもので、日本の児童は遊びでも「負けて逃ぐるはチャンチャン坊主」「支那のチャンチャン坊は戦に負けて」などとはやしたてている。 大人も時と所をはばからず「チャンコロが」「チャンが」「チャン公」などと広言している」

沖縄・・・・

1937年2月「姓の呼称改正に関する審査委員会」が、「84の読み替えるべき姓」を発表して、沖縄の内地化を促進していた。 例えば、東門(あがりじょうを (ひがしかど)、安良城(あらぐすく)を(あらき)、具志頭(ぐしちゃん)を(ぐしかみ)などだ。 同時に、島津藩は「やまとめきたる名字」を禁止し、漢字表記を独特のものにしていたが、それを元に戻す運動を、すすめていた。 例えば、船越→富名腰→船越や、下田→志茂田→下田

アイヌ・・・・

1901 「旧土人児童教育規定」てアイヌの子どもたちは、旧土人小学校で教育を受け、アイヌの言語や歴史・文化は卑しむべきものとされた。 ヤマトタケルの蝦夷征伐など、「アイヌの児童は天皇の支配をまつろわなかった「賊」の子孫ときめつけ」る教育を受けさせられた。 

一方、「自分たちがアイヌ、アイヌとさげすまれながら、そのアイヌが、朝鮮人のことをセンジンとか、ハントウジンといってバカにしている」と、差別を作り出している。 

そのた・・・・

ウィルタ(樺太の北方少数民族、オロツコ)、ニブヒ(ギリヤーク)、キーリン、サンダー、ヤクートらは、アイヌより一段と低い「土人」として取り扱われた。 




現地の民衆との関係は・・・・

「見落とすことができないのは、慰安所の存在であった。彼によれば、所属部隊の約五百人は、日本軍がつくったシグリの町の慰安所によく通ったが、そこには日本人や朝鮮人の慰安婦は来ていないので、現地の華人、アチェ人、パタック人の夫人が陰府にされていた、という」

「6月3日、ビルマに軍政がしかれ、8月1日、ビルマ中央行政府がつくられた。しかし、加藤にはその腐敗ぶりが目について仕方がなかった」 「彼は募兵の途中バセインの慰安所を見に行ったが、ここにいたのは全部朝鮮人の慰安婦であったという」

「第二次大戦時の日本の罪も大きいが、それに上回る功績は日本にもあった」との考えがあった。これは、現地の民衆との交流があまりなかったことと関係がありそうである」 ・・・ なるほど、そうかもしれない。 


最後にインパールでのひどいエピソード。

インパールの戦いに参加した崎元は、「ウントーの兵站で一息つき、汽車でカンバル駅についた。同行の重症患者がいたので、そこから再び汽車に乗ろうとすると、少尉がきて、この列車には軍旗が乗っているので「貴様達のような乞食みたいな兵隊を一緒に乗せることはできない」と拒否された。このとき、彼は激しい憤りを感じ「我々は一体何のために戦争をしてきたのだろう」と思った。永い軍隊生活の中でこれほど残念な思いをしたことはない、と彼は記している」


民衆一人一人の手記、発言を集めているものなので、ファシズムを支える草の根の動きは、必ずしも、明快ではないけれども、天皇制への従順さ、沖縄・アイヌ・アジアへの差別、戦争への協力 ・・・ という日常こそがファシズムわ支えている。 



吉見義明「草の根のファシズム 日本民衆の戦争体験」(東京大学出版会1987.7.7)
第1章 デモクラシーからファシズムへ
第1節 戦争への不安と期待
第2節 民衆の戦争
第3節 中国の戦場で
第2章 草の根のファシズム
第1節 ファシズムの根もと
第2節 民衆の序列
第3章 アジアの戦争
第1節 インドネシアの幻影
第2節 ビルマの流星群
第3節 フィリピンの山野で
第4節 再び中国戦線で
第4章 戦場からのデモクラシー
第1節 ひび割れるファシズム
第2節 国家の崩壊を超えて





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