映画「神々と男たち」は、完成度の高い荘重な映画だが、真に理解することはむずかしい

1990年代、アルジェリアの山村にあるキリスト教修道会は、イスラム教信者の村の人々と、お互いに深く信頼しあった関係を長らく築いていた。 そこに、イスラム原理主義のグループと政府軍の内戦状態になり、イスラム原理主義グループは、クロアチア人など外国人を理由もなく殺し始める。 テロリストが修道院に来るのは必至だ。 この地を去るかどうか、修道士ひとりひとりが悩み始める。

敬虔なイスラムの住民は、テロリストがバスの中で、スカーフをしない娘を刺殺したことに衝撃を受けるとともに非難する。 彼らはコーランすら読んでいないと。 イスラムの集会にクリスチャン修道士が出席して共に祈ったりする。 医者でもあるリュック修道士は、日に100人もの村の患者の相手をしたり、村の娘の恋の相談にのったりする。 村や村民にとっても修道会は心の支えだった。

クリスマスある日、アリ・ファヤティアをリーダーとするテロリストたちが、修道会に武器を持ってなだれ込んだ。重傷者が居るのでリュック医師を連れてゆくという。 選択肢は無いと威嚇するファヤティアに対して、クリスチャン修道士は、高齢のリュック医師も薬も村人のためのものなので、それは断ると告げる。 そして、コーランには、貧しく大地からの恵みで務める司祭たちのいるキリスト教はイスラムと隣人と書かれていると、説得する。 理解したファヤティアは、握手をして立ち去った。

ファヤティアは、立ち去っても、別のテロリストが来るだろうと、数名の修道士はフランスに帰りたいと話す。 軍が周囲を守ると言う申し出もクリスチャンは断る。 それに対しても、クリスチャンひとりで決めるのはよくないとある修道士は語る。 そして、皆ひとりひとり思いを語る。 殉教する意味は無い、この地の使命をまだ果たしていない、暴力には屈しない、病気なのでこのまま耐えることはできない・・・・それぞれ思いは乱れる。

村の長老たちと話す。 ひとりの修道士が「我々は鳥だから、いつ、この地を離れるかわからない」と話すと、村の女性は、「我々が鳥で、修道士たちは枝なのだ。 枝が無くなる鳥は停まる枝がなくなる」と、応えた。

街の行政当局は、「国から帰国命令も出ている。 テロリストたちは本気だ。 修道士たちは村のために尽くしてくれ、尊敬している。 しかし、国外退去するのは当たり前のことだ、なぜ、頑固にとどまるのかわからない」と、立ち去ることを強く勧める。

怪我したファヤティアが修道会の診療所を訪れる。わけへだてなく治療するリュックは、銃創で感染症をおこしたファヤティアを助ける。 政府軍は、テロリストに甘いと非難する。 ファヤティアらしきテロリストを銃撃戦で倒した軍はクリスチャンに死体を面通しさせる。 間違いないと確認したクリスチャンは、死体に祈りを捧げる。 それを見た政府軍の司令官は疑いの目を向け、診療所に来る人々を尋問したり、ヘリコプターで修道会の頭上を威嚇旋回してゆく。

クリスチャンは、二度目の皆の意見を確認するとき、「野の花は光を求めて移動しはしない。 神は、その場で、受粉させてくれるだろう」と、語り、この地に留まることを伝える。 そして、おそらく最後の夕食の場、ワインを飲みながら、白鳥の湖の音楽に涙する修道士たち。


・・・・ 1996年に実際におこった事件の再現ドラマである。 映画としての完成度はすこぶる高い。  修道士たちがところどころで歌う聖歌や彼らの語る言葉は、たまらなく美しい。 それを聞いているだけでも2時間の映画はあっという間にすぎてゆく。 

しかし、イスラム原理主義の人々はもともと全く理解できないが、修道士の人々が留まることも、理解できそうでいて理解できない。 私のような怠け者なら動くのが嫌だということはあるかもしれないが、殺されることは必至なのに、留まるというのは、やはり難しい選択だ。

映画は、一般に普遍性がたかいが、文化、伝統、環境、習俗、宗教などの理解が必要なこともある。 この映画を真に理解するためには、宗教を血肉としていないと理解できないだろう。






 



映画「神々と男たち」(グザヴィエ・ボーヴォワ監督 フランス 2010)

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    Excerpt: 「神々と男たち」★★★☆ ランベール・ウィルソン、マイケル・ロンズデール、 オリヴィエ・ラブルダン、フィリップ・ロダンバッシュ出演 グザヴィエ・ボーヴォワ監督、 101分 、2011年3月5日公開 .. Weblog: soramove racked: 2011-04-26 07:20