リチャード・ロイド・パリー「津波の霊たち 3.11死と生の物語」

「・・・霊たち」というタイトルで不謹慎にも興味を引いて手にした。  311の被災地で幽霊を見かける人は多く、医師や宗教者が以前から、ごく自然に受け容れていたと、幾つかの真面目な本で読んでいたから本当のことなのだろう。

この本にも、多くの津波による死者に憑依された女性を、エクソシストのような活動で支援した金田住職をはじめ、いくつかの話題の紹介がある。  

しかし、この本の内容の大半は、霊の話ではなく、大川小学校で起こったあまりにも悲しいことの詳細な経緯と筆者が取材し、まるで日本人論、日本文化論とも呼べるような、深い考察だ。 大川小学校のできごとは、日本の縮図だ、まるで、モリカケや日大アメフトと同字じゃないかというような酷い縮図だ。

教育委員会や休暇中だった校長は、子どもを守れなかったことは申し訳ないというが、過失はなかった、やるべきことはやっていた、つまり責任はない、という一線を守り通した。
 
従来の地震までしかなかった避難計画を、津波対応を加えるために校長の指示で更新したばかりなのに、ここに津波が来るとは予見できなかったと校長は主張する。  子どもたちと裏山のシイタケ取りなどをした写真があるのに、裏山に行くのは子どもには無理だから山に登る選択肢はなかったと言い張る。  六年生の男子がここにいては死ぬから裏山に行こうと担任に懇願した事実の証言を記録から削除してなかったことにする。  教委の指導主事が子どもたちや保護者などから聞き取りしたメモを廃棄してしまう。  ただひとり生き残った教諭が、山に行け山に行けと叫んでいた証言があるのに、その教諭はこころの病だとして隔離して、証言させなかった。 いや、姿を隠す前のその教諭の証言は九割がた嘘と判明していた。  説明会で校長が保護者の質問に答える際、隣の教育委員から、いちいち「指導」されるという、どこかで見たような風景もある ・・・

こんなことが続けば、いくら共同体の結びつきがきつく、表だって文句を言う雰囲気のない田舎でも、怒りのあまり罵倒したり、訴訟によって真実を明らかにしようと考える保護者が出るのは当然だろう。 筆者は、人々の我慢強さや共同体を維持するバランス感覚を素晴らしい日本の美風と思いつつ、誰も責任をとらない日本を変えるために、訴訟に打って出て戦う保護者達に心を寄せている。 


311で、学校の教師の管理下で死亡した75人の子どもたちのうち74人は大川小学校にいた、他の小学校は、みな、避難計画に沿って所定の高台に避難した、しかし、大川小学校の避難計画は、講演や空き地に避難すると、つまり、何も考えていない計画だった。 これだけでも学校の失敗は明確だろう。 

それでも保護者達はひき裂かれた。 死んだ子どもと生き残った子ども、それらの人数、遺体の見つかった子どもと、まだ見つからない子ども、それらによっても保護者達は、微妙に感情が異なり、ひき裂かれていった。 さらには、学校の責任を追及し続けるグループの大胆なまでの率直さは、日本の基準ではあからさまな攻撃行為とみなされ、多くの人が怒りや屈辱を感じた。公の集会で市の役人を罵倒することは、度を超えたマナー違反だと考えられた。彼らの教育委員会に対する糾弾は、別の立場の人から見れば、これまで築いてきた繊細な関係のバランスを脅かすものだった。 

「村社会では、非難をすればのけ者にされます」とか、「多くを話しすぎたり、何か物議を醸すようなことをしたりすると、お役所に助けてもらえなくなるというのが一般的な考えです。家の近くの道路を修繕してもらえなくなる、公的なサービスが受けられなくなる・・・・。みんな、そう考えるんです」 ・・・ そういう、暗黙のブレーキが、人々が不満を口に出すことを妨げる。 




筆者は、教育委員会や市の動きに、非常にありきたりな日本の姿を浮かび上がらせてくれる。

「ところが大川小学校のケースのような失敗に直面したとき、個人的な親切心と共感は、共同体としての本能-外部の攻撃から組織を守ろうとする本能-に凌駕された。反論の余地のない批判にさらされると、堅苦しい形式という鱗のなかに身を隠し、お役所言葉という鉤爪を武器にして、組織は元の委縮した姿にもどってしまった(中略)彼らの忠誠心は、公共心、良識よりも高い次元にある大義へとむけられた。 それは、組織の評判がさらに傷つけられることを防ぎ、何よりも裁判所での法的攻撃から自分たちを護るという大義だった」

また、よくある「検証」委員会なるものは、「その使命である「検証」という言葉には、具体的かつ限定的な“範囲”があることが判明した-出来事についての事実や要因については特定するが、個人的な責任は特定しない」、という前提があり、この検証の真の目的は、「“独立した”専門家に委託し、当たり障りのない穏やかな批判を要所要所に織り交ぜた中途半端な報告書を作りだすことによって、罪ある者たちのキャリアと評判に傷をつけないようにすること」にちがいない。

日本でなかったら、「犠牲者たちはすぐさま声高に訴えるにちがいない-政府はどこで何をしている? 2011年の日本では、そんな問いはほとんど聞こえてこなかった」。 そして、欧米で「似たような悲劇が起きたとしたら―数十人の子どもたちの命が奪われ、管理当局の欠如について明らかな疑義があれば-早い段階で大勢の弁護士が遺族のもとに群がっていたはずだ。 ところが日本では、訴訟を起こすことに対して人々のあいだに本能的な嫌悪感があり、そのような行動に出た人自身も大切な不文律を冒していると感じる傾向があった」

筆者は更に強く掘り下げる。  「“我慢”はしばしば、自尊心の集団的な欠如とも思える状態を意味することさえあるのだ。震災後の早い時期において、"我慢”は動揺する被災者たちを結束させる力になった。 しかし同時にそれは、政治の力を去勢するものでもあった。結果として、多くの日本人がこう感じるようになった―国家的な窮状に対して個人的な影響力など及ぶはずもないし、よって個人的な責任を負う必要もない」

そして、こう叫ぶ。 「私としては、日本人の受容の精神にはもううんざりだった。 過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた」


保護者の一人の言葉が印象的だ。  ・・・  「きっと、原発と同じです。それまで何年もの間、誰もが危険性を見くびっていた。その結果が、この突然のひどい状況です。大川小学校でも、教師たちはすべてを見くびり、何も真剣に考えていなかった」




リチャード・ロイド・パリー「津波の霊たち 3.11死と生の物語」(早川書房 2018.1.25)
GHOSTS OF TSUNAM)
プロローグ 固体化した気体
第1部 波の下の学校
第2部 捜索の範囲
第3部 大川小学校で何があったのか
第4部 見えない魔物
第5部 波羅僧羯諦 ― 彼岸に往ける者よ









津波の霊たちーー3・11 死と生の物語
早川書房
リチャード ロイド パリー

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