河西秀哉「天皇制と民主主義の昭和史」

敗戦直前から昭和の終わり近くまでの、天皇制を守ってきた人々、天皇自身の行動などを、かなり多くの史料で解明してゆく力作だと思う。ひとことでまとめれば、敗戦によってその存続が危ぶまれた天皇制は、GHQの占領政策によって維持が決定されたが、裕仁天皇自身の退位が天皇制廃止につながることを恐れた関係者によって、あらゆる工作や宣伝行動がなされた。果ては、裕仁天皇は民主主義の体現者であって天皇制は民主主義と親和的であるかのような主張すらなされていた。そのひとりが、裕仁天皇自身であって、いわゆる人間宣言に「五か条の御誓文」を入れることに強くこだわった。しかし、道徳的にも退位が望ましいという意見も少なからずあった。

そして、天皇は文化の中心だとして、文化人との会見を企画したり、民衆とともにあると訴えたくて、新聞記者との記者会見を工夫したり、GHQの指示でありながら、自らの財産を国民に提供した高潔な人物に祭り上げたり ・・・ あらゆる手立てをして、天皇と天皇制が民主主義に馴染むという主張を政府民間をあげて実施していった。 それは吉田茂による、天皇と天皇制の、国内統治のための政治利用でもあったわけだ。

講和条約締結の頃になると、もう天皇制は維持できたという安心と、新生日本には、戦争のイメージがつきまとう昭和天皇よりも皇太子のほうがよいという理由で、右の中曽根氏から左の市川房江氏まで、そして民間でも天皇退位論が再び起こったが、昭和天皇は、一貫して退位する気がなかった。そればかりか、政府を通さず、直接、「沖縄メッセージ」によって、米軍の沖縄残留を要請し、外交にも乗り気だった。昭和天皇は、戦後もなお、自身を君主として意識していたにちがいない。 彼にとって、「象徴」という意味を、息子の明仁天皇のように悩み考えたことなどないにちがいない。 

「憲法を制定する議会で、担当の金物徳次郎国務大臣が曖昧な答弁の終始し、「象徴」を明確に定義しなかった」という。 たぶん彼にはわからなかったのだろう。 美智子皇后ですら「象徴」はむずかしいのだから。


さて、ほぼ年代別にトピックを見ていく


<敗戦前後の天皇制維持と退位論>

・「敗戦直後の九月の時点で、内閣の中枢部において、すでに憲法改正の必要性が考えられていた事実は注目すべきだろう」・・・帝大の矢部は、連合国の指示ではなく、自主的に議会主義や民主主義を徹底すべきだと主張した。 高山岩男と矢部貞治は、一致団結して再出発するためには「国民共同体の礎石をおくこと」が必要で、「日本民族の道義力」の涵養のためには、天皇を「超階級的な統一と安定の中心」におくことが重要だと「国民の天皇」論を思考していた。美濃部や宮沢は、「連合国の占領改革・民主化に対しても、天皇制という制度は適合的だとの論理を日本側は供給しようとした」

・ 高山岩男は、天皇が敗戦を導いた道徳的・道義的責任は逃れられないと、「天皇制と天皇個人を区別した高山は、天皇制を維持するため、天皇個人に責任を取らせて退位させることで、天皇制の「絶対性と神聖性」を保持しようとする」。 

・ 近衛文麿も、戦争を止めることができなかった天皇個人の道徳的責任により、退位論を展開したが、自身の拘束を忌避した自殺で進展しなかった

・ 「高松宮は皇祖皇宗に対する責任から、天皇の退位の必要性を痛感していた。そしてその時期は、連合国からの戦犯指名を先取りして退位すべきと考えていた」。 また、東久邇宮も天皇の退位について、天皇自身もそういう意思だとインタビューで語っていたが、その記事を読んだ天皇は否定したという。 昭和天皇は、まったく退位する気はなかったのだろう

・ いわゆる「人間宣言」は、発表された詔書は当初の原案と異なり、民主主義と天皇制の親和性を強調していた。「朕ノ政府ハ」という言葉もあり、天皇制下での政治体制の構築を求める内容に変化していた。「ジョン・ダワーの言葉を借りるならば、天皇は「天から途中まで降りてきただけ」であり、その意味で神格化否定というGHQの当初の目的は不徹底に終わったと言える」

・ 天皇は、神格化否定は二の次であったし、神の子孫であることの否定までは拒否していた。「天皇が「五か条の御誓文」を挿入することにこだわった背景には、国内外の過度な民主化要求が天皇制廃止へと繋がることを恐れ、民主主義がいかに日本において定着した思想であるか、そして天皇制と民主主義が矛盾せずにいかに適合的であるかを、明治天皇の言葉によって証明しようとする天皇の意志が存在していた」


<天皇遷都論・文化象徴>

・ 天皇の都も変えようという意見もあった。亀井勝一郎の遷都論は、古の大和の地、飛鳥の里あたりに、自由人として住むことを求め、木村毅の遷都論は、東京に行って現人神にさせられた天皇を京都に戻すものだった


・ 天皇の民主主義適合の宣伝はさらに続く。「陛下は平和と民主主義と文化のシンボル」となり、「天皇の生物学研究を平和や民主主義・文化といった概念に結び付けた」。さらに、「民衆のことを常に思考し、そのために財産を供出する」と、新聞報道され、天皇はたいへん満足したようだ。

・ 田島宮内庁長官、三谷侍従長、安倍能成 ・・・ 「彼らは文化人との交流によって、文化という概念を象徴天皇像に組み込んでいった。そして文化人が天皇との会見の様子を文章化することで、そのような天皇像が広く伝わっていくことになる」


<反共と天皇、講和独立>

・ 相次ぐ共産主義国の誕生・朝鮮戦争勃発という状況で講和を迎え、反共のためにも、GHQに代わる強い統治権威が必要となり、吉田茂は、天皇制の権威を再編成、「「皇室を政治、宗教、文化など、社会のあらゆる方面における精神的、道徳的中心」とするために、皇室儀式を「国民の祭典」にすることで皇室を民衆の中心に位置づけ、権威づけようとした」

・ 文相の天野貞祐は「共産党の勢力の拡大の原因を愛国心の欠如と考え、日の丸・君が代の復活、道徳教育推進を計画した」

・ 1951.11.1に起こった 京大天皇事件は象徴的だ。巡幸に来た天皇に学生たちが公開質問状を提示し揉めた。政府は共産党の背景を宣伝、学長は、「日本人である以上は、幾らがさがさ言うておっても、いざとなれば、これは陛下に対する適当な敬意を表するとかたく信じておった」と学生を処分、「処分された学生らは郷里に帰ると、家族とともに「村八分の状態」を経験することになる」

・ GHQの皇室財産の移管・解体方針に基づき、「37億円と評価された皇室財産に90%の財産税が課せられ、1948年3月までに土地や森林、美術品など物納によってそれが支払われた。この時物納された土地のうち皇居前広場・新宿御苑・京都御苑が後に旧皇室苑地と呼ばれ、国民公園として整備されることになる」・・・「民主化」を表象するツールとして新宿御苑の開放が使われた


<再度の退位論と明仁皇太子への期待>

・ 再軍備を狙う人々は、軍隊の政治化を避けるため、「その中心に「最も正しい人」を」据える必要がある。しかし、「昭和天皇はアジア・太平洋戦争に対する「道義的な大責任者」であり、戦没者遺族などの感情を考えればそのままで再軍備を進めることは民衆の感情がこれを許さない」・・・したがって、「講和条約を機会に天皇は退位し、皇太子が新しい天皇に即位すること」が望ましいと考えられた

・ 1952.5.3 の「お言葉」でも、「天皇は自らの戦争責任に直接言及することを避け、国家再建に伴う責任のみ主張している」。その代わり側近の報告で「戦争責任を感じている姿が描かれるという使い分けがなされ」たり、「「人間」的苦悩や民衆の生活・国家再建を考えて行動する天皇像がアピールされる」・・・ なかなか巧妙だ

・ 「冷戦体制が構築されるに従って、国内では次第に戦争責任を曖昧化する動向が進展していた。そして多くの人びとは責任を一部の軍人に押しつけ、天皇を免責する方向性を認証し、天皇の退位は考えていなかった」


<あくまで君主だった天皇>

・1947.7.22 ウィリアム・シーボルトGHQ外交局長からジョージ・マーシャル国務長官あて書簡に同封された覚書「沖縄メッセージ」は、
 ・「天皇は、アメリカが「沖縄、その他の琉球諸島に対する軍事占領を継続するよう希望」していた。
 ・「天皇は、米軍の沖縄占領を「主権を置いたままでの長期」「租借方式という擬製にもとづいて行われるべきである」と表明
 ・天皇は、その「意思を、政府に相談することなく自主的に、アメリカ側に伝達したのである」

・ 「おそらく明治以前に「日本」であった地域が、天皇の中の「日本」であった」だから、天皇にとって沖縄は日本ではなかった。奄美群島は日本だったから、その返還にわざわざ感謝のメッセージを送った

・ 1946.10.17 の天皇会見で、こんな発言をした。「日本人の教養未だ低く且宗教心の足らない現在、米国に行はれる「ストライキ」を見て、それを行へば民主主義国歌になれるかと思ふ様な者も少なからず、これに加るにいろいろな悪条件を利用して為にせんとする第三者ありとせば、国家経済再建の前途は誠に憂慮に堪へぬと申さねばなりません」・・・彼は平和主義者なんかじゃなく、強固な反共主義者だ

・ 「戦前以来、一貫して君主としての意識を持ち続け、外交や治安などに関心を寄せ続け、常に情報を得、政治家たちに発言したり鼓舞したりした昭和天皇。彼にとって「象徴」とは戦前の天皇機関説的な君主と同じであったのかもしれない。だからこそ、戦後も積極的な行動を亡くなるまでつづけていったのである」







河西秀哉「天皇制と民主主義の昭和史」(人文書院 2018.2.28)
第Ⅰ部 象徴天皇像の戦後史
第一章 昭和天皇退位論
1. 天皇制維持の「合理的根拠」
2. 天皇制維持の模索
第二章 天皇、「人間」となる
1. 「人間宣言」と全国巡幸
2. 皇居-天皇との結びつきの空間
第三章 象徴天皇像を描く者たち
1. 皇室記者は何を描いたのか
2. 文化人的天皇像
第四章 揺れる象徴天皇像
1. 天皇権威の再編成とそれへの反発
2. 象徴天皇像の相剋
第五章 「文化平和国家」の「象徴」として
1. 皇居再建運動の展開と象徴天皇像
2. 皇室苑地の国民公園化
3. 占領期最後の天皇退位問題
第六章 青年皇太子の登場と象徴天皇制の完成
1. 「文化平和国家」の出発と皇太子外遊{
2. ミツチーブーム
第Ⅱ部 昭和天皇の戦後史
第一章 昭和天皇の「日本」意識
1. 敗戦前から直後にかけて
2. 沖縄・奄美・東アジア
第二章 昭和天皇の「外交」
1. マッカーサーとの会見
2. 安保条約をめぐる「外交」




この記事へのコメント