林えいだい「筑豊・軍艦島 朝鮮人強制連行、その後」

以前、長崎軍艦島が世界遺産に登録されるという話があり、韓国から抗議があったと聞く。そのときはずいぶん細かいことに文句言うものだと思ったが、この本を読むと、これなら私でも抗議したかもしれないと思いなおす。それほどに、軍艦島(端島)は朝鮮人、中国人の犠牲が大きい。筆者も言う。 「端島は観光資源ではなく、炭鉱犠牲者、とりわけ朝鮮人、中国人の追悼の島なのである」と。しかし、その端島は、朝鮮人抗夫を大量に奴隷のように使った北九州の炭鉱の一部にすぎない。

筑豊のぼた山近くで生まれ育ち、神主である父親が朝鮮人抗夫の逃亡を手助けしたかどで特高に拘束され、その拷問のせいで死んだ、そんな原体験をもつ筆者が、取材し調べ上げたデータ、かき集めた写真で、朝鮮人抗夫の強制連行・強制労働の実態を明かしてゆく。



<当時の日朝関係について>

・ 1875年  江華島の武力による侵略事件の後、日韓議定書、日韓協約によって、朝鮮の保護化が進み、第二次日韓協約によって、総督府が設置され、属国化された。 そして、1909年7月6日、「対韓政策決定ノ件」が閣議決定され、一切の統治権が譲渡された。一方、東洋拓殖会社の設立によって、土地買収が進められていき、土地を失う農民が増えていった

・ 弟が端島で事故死した崔洛宇の証言・・「当時は日本人の支配下に朝鮮人全体が生きてきたから、あの権力に対して抵抗することなんか考えられなかった。むしろ支配者に協力する朝鮮人の方が多かったからな。同じ民族として実に残念なことだがね」・・・「秋の収穫期になると、農作物はすべて供出するように命令され、その替りに満州コーリャンの配給があった」・・・これはひどいね。

・ 「当時、福岡県内には、250以上の炭鉱があって、その中心であった筑豊地方では15万人の朝鮮人が強制連行されていたことを、田川警察署の満生重太郎特高主任と飯塚警察署の柿山重春特高主任の二人が証言している」・・・数字は慎重に受け止めないといけないが。



<朝鮮人抗夫の経緯を整理しておこう>

1898年 2月  古河下山田炭鉱で29人がポンプ型として採用・・・これが筑豊で最初
1917年 1月  それまで遠賀川の洪水対策、運搬船用の工事に朝鮮人労働者が使われていたが、貝島炭坑で試験採用始める
1917年 12月 貝島炭鉱の、技術を要しない露天掘りを朝鮮人を使って始める。 
1922年 「日本人労働者にかわって、低賃金の朝鮮人労働者の移入をはかるため、「総督府労務嶺」を公布した。渡航の障害になっていた旅行証明制が撤廃されて、自由渡航制に切り換えられたため、朝鮮人労働者はどっと日本へ渡航してきた」
1928年 「福岡県下107炭鉱のうち、朝鮮人抗夫を雇用したのは52鉱で、その抗夫数は8711人に上がっている」(管内朝鮮人抗夫労働事情」)
1932年 「麻生系炭鉱全体では4385人の坑夫が働いており、そのうち朝鮮人抗夫は1066人を占めていた。他の炭鉱と異なり麻生炭鉱では納屋制度は温存され、約60人の朝鮮人頭領が支配していた。麻生炭鉱では抗夫賃金は筑豊では最低といわれた」
1937年 日中戦争の拡大で熟練抗夫は召集され、残った抗夫もより安全な産業に移ったため、人手不足の深刻化・石炭生産量の落ち込んだ
1938年 4月1日 国家総動員法を公布、「昭和14年度労務動員実施計画綱領」を閣議決定 、朝鮮人労働者の集団移入に踏み切る
1939,年 7月4日 国民徴用令公布したが、半島では反発を恐れ適用しなかった
1939年 7月28日 内務・厚生両次官通牒「朝鮮人労務者内地移住ニ関スル件」によって、同年度85000人の枠内で各企業に認可、「朝鮮人労働者募集要項」「朝鮮人労働者移住に関する事務手続き」を定め、募集方式による連行が始まった
1939年 11月  国民徴用令の朝鮮での施行。ただし、軍要員のみ適用
1942年 2月「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」に基づく「朝鮮人内地移入斡旋要綱」がつくられる。より強力な動員対策で、悪名高い「官斡旋」方式
1944年 9月 一般徴用方式に



<「強制連行」について>

筆者は「強制連行」という言葉をあまり躊躇なく使っている。もちろん中には、特に初期は「強制連行」でなく本人の出稼ぎというケースもあったに違いない。ネット右翼なら、「強制連行」などなかったと否定するに違いない。筆者は朝鮮人抗夫を集めた方法について下記のように整理している。 

「朝鮮人の労務動員の特徴は、計画的で、集団的で、強制的」だった。 朝鮮人労働力の供出は、厚生省、総督府の組織的な強制連行の形態をとって、三つの段階を経て実施された。
・募集方式  ・・ 1939.8 ~
・官斡旋方式 ・・ 1942.2 ~
・徴用方式  ・・ 1944.9 ~

筑豊石炭鉱業会は、内務・厚生両次官通牒の直後、1939年7月に、視察団を送り、総督府、道庁、郡庁、面事務所、警察関係者に接待しながら、募集活動を始めている。

手続きは次のようにして進む。各炭鉱で必要数決め → 福岡県に朝鮮人募集申請 → 県から厚生省に送り査定を受ける → 総督府に打診 → 総督府は各道に割り当て → 道と郡は面事務所と折衝して募集人員の最終決定 → 総督府は厚生省に募集地域と許可人員を報告 → 県を経て各炭鉱に通知 ・・・ つまり、最終的に面事務所に任される。 募集寮に応募が達しなければどうなるか、ちょっと想像すればわかる。最初は募集に応募する農民も多かったが、炭鉱の危険さが徐々に伝わると奪い合いになり、賄賂や接待が欠かせなくなり桁外れのコストになって来る。そして、総督府からの供出命令は絶対なので、面事務所の総務課が苦労した。
「1943年末になると、供出ゃリストを作っても山中に逃げて家にいない。(中略) 心を鬼にして親戚のものを指名せざるを得なかつた」

現場での「募集」や「連行」の例である。

・「面長とか面の有力者は、一人に400~500円支払って、まったくの他人を本人に仕立てることがあった」

・1943年 趙永煕氏の例・・・里帰りしている趙に栗里面事務所から出頭命令が来た。面巡査に連行され、98人が待機させられていた留置場にいれられた。「「日本へ行く理由はない。わしを平壌に返せ」趙の声を聞くと、特高はサーベルを振り上げた。「お前はほかでもないが、皇国臣民として、日本の炭鉱に行かなくてはならない。これは天皇陛下の命令だ」。趙は、崔氏と会うことなく大正中鶴炭鉱へ連行された。 竹原の強制連行は36回に及んだ」

・「朝鮮募集をする際にはいいことずくめ、好条件を並べて宣伝した。日本の炭鉱に行けば、抗夫賃金は一日当たり五円支払うとか、労働時間は八時間で残業はない。労働すれば一週間に一度の休日、食事は白飯の食べ放題と夢のような話をした」・・・「規定通りの待遇や労働条件を実施する炭鉱もまれにはあつたが、ほとんどが嘘を言って朝鮮人を騙した」

・ 「初期の高島炭鉱では、抗夫のほとんどが口入れ屋によって募集された。嘘八百並べて信用させ、支度金を渡して長崎の遊郭などで遊ばせた。高島へ渡り納屋抗夫になると、支度金の利子が雪ダルマのようにふくれ上がり、酒と賭博と女で借金がさらに増えていった。納屋抗夫になると、賃金はいっさい支払われることなく酷使され、一生高島から出ることはできないとまで言われた」

・ 鄭正漠からの手紙「私は1940年、慶尚南道固城郡下二面徳明里から三千浦邑の市場へ三人の友人と行く途中、路上にて日本人巡査から逮捕されてトラックに積まれ、九州の福岡県飯塚のナマッタ炭鉱(三菱鯰田炭鉱)へ強制連行されました」



<炭鉱の労働の実態>

ひと言でいえば、ほぼ奴隷労働に等しい。

・ 「政府によって訓練期間は三か月間と決められていたが、石炭増産のノルマのために短縮されて、わずか二、三日の訓練で坑内採炭を命じられた」・・・坑内指導員が危険を知らせても、「朝鮮人抗夫は日本語がわからないため、天井の落盤で即死することがあった」

・ 「麻生炭鉱が軍需工場に指定されると、芦屋憲兵隊 (中略) から、三人がやって来て、労務詰め所で朝鮮人抗夫の出勤簿を調べた。欠勤している者を呼び出すと、理由も聞かずに強引に入坑させた」

・ 1943.8.11 麻生吉隈炭鉱の暴動事件に対する賄婦清水ナツノの証言「・・・風邪を引いてな、40度の熱が出て布団に寝ていると、ずる休みするなと木刀でたたいて坑内に追いやっとった。米がないけ麦とかコーリャン、それか大豆かすの雑炊ばっかり、とてもじゃないが力は出りゃせんたい。病気で働かん朝鮮人には飯を食わせるなち、労務はむごかことばっかり言いよった。朝鮮人には食べさせんで、浮かした米は労務がみんなで分けて持って帰りよった。ピンはねしよったけね。労務は別に用事がなかとにいつも炊事場に顔を出して、飯を食わせろと言って、きたない根性の奴ばかりだった。一番タチの悪かとが憲兵たい」

・ 「抗内の状況を知っている日本人抗夫たちは、仕事がしやすくて生産が上がり、危険がない場所を選んだ」

・ 「1944年の夕張炭鉱の事故死者名簿をみると、その90パーセントが朝鮮人抗夫である。1945年の43人の事故死は、全員が朝鮮人抗夫である。いかに危険な採炭現場に投入したかの証明である」

・ 「一日の生産目標を掲げると、それによって抗夫一人ひとりのノルマが決まる。ノルマを達成するまで残業させるので、結果的には長時間労働となった。一週間に一度の大出し日を決めると、翌朝まで昇抗させなかった」

・ 「日鉄二瀬鉱業所で、中国人捕虜が坑内に落書きしたことが大問題になった。( 中略) 十数人が逮捕されて福岡刑務所へ送られた。数人が獄死したことが、日鉄の特務資料で分かったが、それは拷問死の証拠でもあった」

・ 文勇烈の証言・・「麻生赤坂炭鉱の採炭作業はきびしく、文は一日中逃走することばかり考えていた。ところが泉水炭鉱にきてみると赤坂炭鉱以上のケタ外れた圧制に、自殺を考えるようになったという。人間を人間と思わない労務係は、一日に20時間働いても昇抗させなかった。 経費がかかる坑内保安を無視するので、事故が頻発して毎日のように犠牲者が出た。 技術者を除いて坑内で働いているのは、朝鮮人抗夫と女抗夫であった。 どんなに働いても賃金は支払われず、要求すると労務事務所に連れてゆき、木刀で殴りつけた」

・ 「中国人捕虜は端島の一番南側の建物に収容されていた。入り口には外から大型の錠をかけ、在郷軍人が銃を持って監視した。中国人と朝鮮人はそれぞれ入坑時間をずらして、採炭現場を別にすることで、両者の接触を断った。中国人の食べ物は朝鮮人抗夫よりもさらに劣悪で、栄養失調で死亡する者が増えた」

・ 朝鮮人抗夫二名が端島から泳いで逃走しているところを発見され、連れ戻され、はげしい拷問にあった。 同僚が「こっそり見に行ったんだが、半殺しにして海の中に投げ込んだ

・ 「朝鮮の故郷から姜に手紙が届いて、父親が死亡したから争議に帰ってこいと書いてあった。姜は労務係にその手紙を見せて、葬儀に帰国したいと頼んだ。「この戦争の時代に、親が死んだくらいで帰ることはない。日本国民として恥ずかしくないか!」と言われて、労務係から殴られた」

・ 「朝鮮人寮に配給された食糧のうち、約半分を労務係が横取りして家に持ち帰るので、彼らには残りの半分しか口に入らないというのであった」

・ 「朝鮮人の死亡原因のなかで、病死を見ると全体で58人 (中略) 問題は事故死( 変死 )が64人で、病死58人をはるかに超えている」

・ 1936年1月25日に、麻生吉隈炭鉱で坑内火災事故が発生した。「坑内全体に火が回るのを恐れた炭坑側は、最深部で働いているのが朝鮮人だと分かると、火災現場と本卸の坑道をレンガと粘土で密閉、空気を遮断した」。鎮火後、壁のところで朝鮮人抗夫25名と日本人抗夫4人が折り重なるように倒れていた

・ 麻生朝鮮人争議に参加した黄学成の証言・・・「わしら朝鮮人抗夫の仕事といえば、最も危険な切羽にばかり追いやられたからね。三十分も採炭しないうちにシビレガスで倒れるんですよ今日まで命があるのが不思議です」・・・「麻生炭鉱の朝鮮人は低賃金で有名でしたからね。その上遅配ばかりで生活はできません。納屋の食べ物は悪いし、衛生面はなっとらん」

・ 「葬儀発生当時の麻生系炭鉱は、賃金が他の炭鉱の半分だったという。炭鉱事故に遭うと抗夫扶助規則があって、負傷の程度に応じて補償金をもらえるが、朝鮮人抗夫には除外されていた」

・ 「炭鉱の事故死よりも拷問による死者のほうが多かったと証言する朝鮮人抗夫もいるほどだ」



<樺太・サハリン・樺太転換坑夫、そして帰国船について>

あまり知られていないけれども、朝日ソ三国の狭間に落ちて苦悩を味わった朝鮮人たち。樺太転換抗夫は家族を連れて行けなかったので、゜開放」のとき、何はともあれ、家族のいる樺太に急いで帰ろうとした。 しかし、たどりつけなかった抗夫は家族と長い別れになってしまった。

・ 薄着のまま朝鮮から樺太に連行された人の中に凍傷にかかった人がいた。「「贅沢を言うんじゃない。お前たちの不注意で凍傷にかかったんだ」と言って、炭鉱病院へ治療にもやらなかった。採炭できない朝鮮人は何処にでも行けと言って、朝鮮人寮から放り出した。氷点下40度の極寒の中を、重傷の彼らはどうやって生きていけるのか。寒さと飢えで野たれ死にしたのではないかと姜は言った」

・ 1942年、徐は、レソゴルスク(旧名好炭鉱)から全義面に抗夫募集にきていたので応募した。日給三円五十銭という約束は嘘で、食べさせるだけで賃金は支払われなかった。賃金を要求すると棒頭が怒って叩いた。

・ 1944年、潜水艦の魚雷攻撃などのため、「8月11日の閣議で、樺太の西海岸の炭鉱と北海道の釧路炭田の休廃を決定した」・・・樺太から、常磐、筑豊、三井三池、粕屋、崎戸、高島、端島、夕張などに配転、これらの炭坑への配転抗夫を樺太転換抗夫と呼んだ

・ 1945年8月9日、「ソ連軍が国境を越えて侵攻作戦を開始した直後、日本人憲兵と警官が上敷香警察署の留置場で朝鮮人19人をスパイ容疑で虐殺した」

・ 8月21日、「政府は次官会議を開いて、強制連行した朝鮮人の徴用解除を決定した」・・・「帰国を急ぐ朝鮮人は、日本政府の送還計画を待たずに、仙崎港と博多港へ続々と詰め掛けた」

・ 敗戦後、政府などの用意する帰還船は少なく、多くの人は闇船で渡航しようとして遭難して亡くなった人も少なくない。その流れ着いた遭難者が着ていたチマ・チョゴリをはいで、売っていた鈴木商店の女将などのあくどい人間もいた

・ 「筑豊在住の在日の朝鮮・韓国人の中には、船待ちの間に所持金を使い果たし、帰国をあきらめた人が多い」





林えいだい「筑豊・軍艦島 朝鮮人強制連行、その後」(弦書房 2010.5.1)
まえがき
第一章 植民地支配
第二章 流浪の民(筑豊)
第三章 募集という名の強制連行
第四章 強制収容所
第五章 強制労働
第六章 監獄島(軍艦島)
第七章 端島炭坑と被曝の二重苦
第八章 帰国船
第九章 樺太転換坑夫(サハリン)
第十章 鎮魂
終章 筑豊残照






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