星亮一編「「朝敵」と呼ばれようとも」

官軍と戦い戦死したか、もしくは投降した幕府側の人々で、筆者グループは「殉国の志士」と呼ぶ。確かに、薩長土肥の人々や浪人たちが維新の志士なら、こちらも志士だろう、負けると分かっても戦わざるを得ない殉国の志士。

目の付け所は、とてもいいし、私もかなり興味あるから手に取ったのだけれども、全体的に記述が薄く、経歴を記すだけでページが尽きてしまう。人柄に言及したり、深く内面を推しはかるなどと言うことは史料もなく無理なのだろうが・・・・

名前を知っていたのは、神保修理、山本帯刀、佐川官兵衛、雲井龍雄の四名だけ、あとの十名は初めて知った。 なんとも近現代史が弱いと思い知らされる。 なかで、玉虫左太夫と赤松小三郎になんとなく興味を抱いた。薩長土肥の名だたる人々よりも、佐幕側に優秀な人々が多かったのだなと感じる。 




星亮一編「「朝敵」と呼ばれようとも」(現代書館 2014.11.10)
はじめに
神保修理
山本帯刀
中島三郎助
春日左衛門
佐川官兵衛
朝比奈弥太郎泰尚
滝川允太郎
森弥一左衛門陳明
甲賀源吾
桂早之助
玉虫左太夫
雲井龍雄
赤松小三郎
松岡磐吉





<はじめに

<神保修理
会津藩、西と通じたと誤解に基づく非難で最終的に詰め腹をきらせられた。実は、徳川慶喜に連れられた大坂から江戸に逃げ帰った松平容保を説得しきれなかっただけ。 「神保修理は胆勇にして忠義厚く、次代を先駆けた英邁な人物で、会津にとって一死以て藩難に殉じた「最初の殉国の士」であった。一方、先に述べた萱野権兵衛は、会津戊辰の役の「最後の殉国の士」である。二人の殉国の士は、相並んで興禅寺に祀られている」

<山本帯刀
若くして長岡藩の重臣に抜擢され、河合継之助とともに戦うも、会津にて処刑される

<中島三郎助
浦賀奉行所の与力として、異国船に対応、黒船の知識から長崎海軍伝習所、江戸の軍艦操練所で教授となるも榎本武揚とともに函館で戦い、息子とともに戦死

<春日左衛門
小石川の在で旗本。彰義隊として官軍に抵抗したあと、転々として最終的に函館戦争に参加、戦死

<佐川官兵衛
会津の猛将。「9月22日、会津藩は降伏したが、佐川は降伏を拒み、城外部隊を指揮して戦いを続けた」 その後、命により降伏して斗南までゆく。新政府の命により、警視庁の幹部として呼ばれ、藩士300名に警視庁の職をもたらす。西南戦争にて戦死。

<朝比奈弥太郎泰尚
水戸は天狗党などの尊王攘夷派から「奸人」と呼ばれる諸生派の重鎮る 攘夷派は桜田門外の変や東禅寺事件を起こし、幕府は過激派の放逐を諸生派に託して、抗争が絶えなかったが、最終的に諸生派は賊軍として会津や下総で戦い、泰尚も戦場で死ぬ

<滝川允太郎
滝川一益の血を引く旗本。伝習隊を率いて鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで、ひたすら先頭に明け暮れ、大鳥圭介からも猪突猛進の猛将として評価される。降伏後、最後は西南戦争で戦死、27歳の若さだった

<森弥一左衛門陳明
桑名藩の公用人にまでなり、会津とともに京都警備にあたり、金門の変、鳥羽伏見の戦いにも参加、後脱藩して上野商議隊に参加する

<甲賀源吾
宮古湾海戦で東郷平八郎と闘った回天の艦長、甲賀源吾秀虎は、米国製の新政府軍軍艦との戦闘で戦死 

<桂早之助
小太刀の達人、桂草之助は京都見回組で、1867.11.15 佐々木只三郎とともに坂本龍馬暗殺の近江や事件に関与、鳥羽伏見の戦いで戦死

<玉虫左太夫
仙台藩に生まれ養賢堂で学ぶ。影響を受けた師は、藩祖伊達政宗公、漢学者大槻盤渓、経世論家林子平、そして高野長英。彼らによって、左太夫は、世界に開けた開明的な思想、人心一和とよぶ共和制を理想とする考え方となった。幕府の使節団の一員としてポーハタン号で訪米し、「航米日録」を著した。その後仙台藩士として養賢堂副学頭に就任、奥羽越列藩同盟を実現させるも、気仙沼にて榎本武揚と行き違いになり、官軍につかまり、処刑された
奥羽越列藩同盟は、「のちに軍事同盟に収まらず、上野寛永寺の門跡で皇族の輪王寺宮を「東武天皇」として迎えたことからわかるように、新たな国家樹立を目論んだとも言えよう」

<雲井龍雄
米沢藩の俊英雲井龍雄は薩摩による藩閥政治を批判し続け、奥羽越列藩同盟では下野など援軍を求めて活動するも、米沢藩が早々と裏切り脱盟してしまった。新政府に職を得ても、藩閥政治の批判をつづけ、不平士族のリーダーに祭り上げられ、拘束され処刑された

<赤松小三郎
上田藩士赤松小三郎は中村半次郎に暗殺されながら、葬儀には島津家より三百両もの忌慰金が贈られた。幕臣内田弥太郎の私塾に蘭学・天文・航海・測量など学び、後勝の長崎伝習所に参加した。松代藩士の娘と結婚したことで松代に蟄居していた佐久間象山と交流した。英国歩兵練法の刊行などから薩摩藩邸でも教鞭をとった。中村半次郎、東郷平八郎、篠原国幹も教え子となる。その後会津藩山本覚馬と交流をもち、松平春嶽に意見書を提出した。「この意見書で彼は土佐藩後藤象二郎に坂本龍馬が提示し自筆が現存する「新政府綱領八策」より先んじ、議会政治の提唱や、人民平等の法則、規制改革、西洋式の肉食の導入、全国主要都市への大学設置になど、日本全体の指針」だった

<松岡磐吉
韮山代官江川太郎左衛門の家来、松岡家を継ぐ松岡盤吉は、長崎海軍伝習所で学び、咸臨丸に測量担当として乗船した。その後小笠原初頭測量などで功績をあげた。幕府側に残った数少ない船のひとつ蟠龍の艦長として函館に向かった。投降後獄死。

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