伊藤孝司「無窮花ムグンファの哀しみ」

映画では、「慰安婦」にされた朝鮮人女性のドキュメントを2,3回観ましたが、書籍では読んだことなかったと思います。今回初めて、彼女たちを取材した伊藤浩司氏のまとめたドキュメンタリーを目にしました。従軍慰安婦は、日本政府も軍の関与を認めていますが、実態は、「関与」どころではなく、拉致・強制連行・詐欺まがいの口利きに始まり、まさに連行・奴隷的管理・強姦・暴行・殺人・遺棄等々したい放題、という犯罪そのものであって人権無視の所業だ。

従軍慰安婦は朝日の捏造だと、なかったことにする歴史修正主義者たちは、一体全体、彼女らの証言をどう考えるのだろうか。全部、嘘が、記憶違いとでも言うのだろうか。 よく言われる、「軍や官憲によって「軍慰安所」へ連行されるといった「狭義の強制性」を示す文書はないとした見解」は、「文書はない」=「事実はない」と「都合の悪い事実は意図的に無視するという驚くべき行為」であって、実際、広い意味でも狭い意味でも、「強制連行」は、こんなにあるじゃないかと。「インドネシアでオランダ人女性たちを「軍慰安所」へ連行した「スマラン慰安所事件( 白馬事件)では、敗戦後の「バタビア臨時軍法会議」で責任者への死刑と将校七人・軍属四人への有罪が下され、その裁判資料やオランダ政府の調査報告者が公表されている」。 最近の韓国たたきのように、朝鮮人慰安婦だけを否定したいのかもしれない。

1991.8.14 「永遠に続くかと思われた沈黙を破り、韓国で金学順(キムハクスン)さんが名乗り出た}。彼女の勇気ある告発に触発され、また、日本政府の、日本軍は関与していないとか、彼女たちのビジネスだとかの言説に怒りを爆発させた彼女たちが続いた。「韓国に続き、朝鮮・台湾・フィリピン・中国・インドネシア・マレーシアから、被害女性たちが次々と名乗り出た。インドネシアで被害を受けたオランダ人女性も体験を公表した」

被害女性へ謝罪・補償を実施するように勧告・決議が次々となされていく。国連人権委員会、米連邦議会下院本会議、オランダ国会下院議会、カナダ国会下院議会、欧州連合議会、韓国国会、台湾立法院・・・・などだ。生きて帰国した彼女たちは、「何とか帰国できても、極度の対人恐怖症になったり。梅毒のひどい後遺症で苦しんできた被害女性があまりにも多い」という。

彼女たちの言葉からわかる日本軍の酷さは想像以上のものがある。従軍慰安婦も徴用工も震災時の虐殺も南京事件も、みな同根、人種差別に根差しているとよくわかる。天壌無窮の皐国日本はそんなに偉かったのだろうか。 彼女たちはおしなべて幼いころから貧しく、それが狙われる遠因ともなったのだろう。だから一層、罪だと思う。



<盧 清子 1922.2.16 – 2004.8.23 >
17歳3月の結婚式の直前のこと、大田の儒城温泉の貧しい農家で畑にいると、10人ほどの小銃帯剣の兵隊につかまり、トラックに乗せられた。どこかの駅で無蓋の汽車に乗せられ、四昼夜走って着いたのは天津だった。「私は7号室で」、毎日30人から40人が来た。朝鮮人商人のおかげで逃げられた。「日本政府は「強制的に連れて行った証拠はない」と、事実を隠そうとしていますが、わたし自身が最も確かな証拠ではありませんか」

<李 貴粉 1927.8.12 – 2004.10.10>
11歳のとき、蔚山に越した後、子ども達で遊んでいた時、背広の日本人と手下の朝鮮人に、お父さんに頼まれたといって、知らない家に連れていかれ、3か月後、釜山・下関を経由して台湾の高雄に着く。軽擦に駆け込むが結局日本軍部隊の慰安所に送られ、日に20~30人相手をしていやがると殴られた。朝鮮人の兵隊は話すだけで一緒に泣いたこともある。終戦と同時に逃げ出した

<金 英実 1924.10.21 - 2003>
13歳で家が貧しく、会寧(フェリョン)の伯母を頼って家を出て居酒屋で働く。17歳、1941年のとき、働き口を紹介してくれるという背広の日本人についてゆくと14~15人の少女が集まっていた。そこから汽車とトラックで国境地帯にいく。 日本の着物に着かえさせられ、将校をはじめ7人の兵隊に強姦され、その後毎日20人~40人の相手をさせられた。「同僚」のトキコは朝鮮語を使って首を切られた。終戦直前に逃げ出した

<李 相玉 1926.1.2 – 2005.2>
17歳の春、黄海北道の区長が「処女供出」の名目で、自分と2人の少女をトラックで連行、安田という男に「俺の言うことを聞かないと殺すぞ」と脅され、翌日に性的暴行された。一緒に連行されたヨンシリは殺された。相玉さんは「面白半分に暴行されました。折り曲げた足の間に棒を入れられ、膝の上にのしかかられたんです。この時の傷は、今でも消えていません」。運良く逃げた場所は、順川まで12キロの所でした

<沈 美子 1924.2.4 – 2008.2.27>
16歳の時、刺繍の無窮花の花で朝鮮の地図を形作ると、学校の先生が日本の地図も作ってという。朝顔の花で作ると警察官はなぜ桜で作らないのか、思想がおかしいと責め、警察署で暴行、電気で拷問をされた。気がつくと福岡の慰安所だった。91年10月の日本軍は関与していないという日本政府の主張に、「私は日本の警察官に連行され、日本軍の部隊で兵隊の相手をさせられた。こんな嘘は許せない」と思い、すぐ放送局に連絡した。「日本は、私たちに悪いことをしたと良心をもって謝罪してほしいのです。また、踏みにじられた私たちに「謝罪金」として補償すべきです」「私は日本軍の慰安婦だったことを恥だとは思っていません。そうさせた日本が悪いのであって、私は何も悪くないからです」
92年5月 挺対協は性奴隷とされた16人を集め、被害者団体「ムグンファ姉妹会」を結成、美子が会長、金学順が総務となった。 「名乗り出てから10年近くは、日本にお金を要求してきました。いつ死ぬかわからない歳になったので、お金はもう欲しくないんですよ。戦争があると女たちが犠牲になります。日本と韓国の子どもたちに、歴史教育をきちんとすることをいちばん望んでいます」

<金 大日 1916.11.5 – 2005>
貧しくて12歳でお手伝いさん、その後紡績工場に売られ、16歳の1932年に、福田という日本人から「食べ物に困らないところに連れて行ってあげる」と。汽車に乗り、釜山を経て下関に行った。そこでシズエと名乗らされ朝鮮語は禁止され大坂の病院で雑役をした。18歳になった正月院長がナイフ片手に襲いかかってきた。1934年に見知らぬ男に引き渡され、満州を多くの女性と一緒に転々とした。途中で動けなくなった女性は「えーい朝鮮人だ」といって刺し殺された。船で上海に行き、40ある部屋の7番として一日40 -50人の兵隊がのしかかって来た。
最初は第12師団に連れまわされ上海・漢口・南京を転々とした。12年間で第6師団の暴力が酷かった。火のついたタバコを入れられたり、犬をけしかけられた。妊娠した女性の胎児を出して母子ともに刺し殺したりした。「日本の敗戦が決定的になりました。すると兵隊たちは、私たち朝鮮人と中国人の女性150人を2列に並ばせました。そして、小隊長が号令をかけて首切りを始めたんです。飛び散った血の雨で、私は意識を失って倒れてしまいました。気がつくと私は血みどろになって死体の中に埋まっていました」。生きて解放の日を迎えた。「あの頃のことを思い出すと、今でも頭に血が上り身震いするほど腹が立ちます」
1992年の6月、「テレビを観ていると、「日本の雑誌で、朝鮮人慰安婦はお金のために日本軍について行ったとしている」と放送したのです。私はそれを聞いて「何をこの野郎」と思わず叫んで (中略) だから私にとっては、お金が問題ではありません」

<姜 潤愛 1927.12.15- 2005.4.15>
11歳のとき故郷の馬山に戻った。既婚女性がするピニョ(簪)をして処女供出から隠れていた。母親は配給の時に君が代を歌えずに手ぶらで帰ったので自分が行って歌うと2倍の配給を貰えた。直後3人の軍人が来た。抵抗する父親に「娘が大阪の会社に行けば、お金が稼げて技術も身に付けられる」と。馬山で14人、釜山で35人になり、下関経由で広島に着く。半年後帰国できると船に乗ると沈没して海に飛び込み助けられて、パラオに着いた。そこで慰安婦の生活が始まった

<黄 錦周 1922.8.15 – 2013.1.3>
父親の病気で窮乏し、12歳の時養子になった。面長から「工場」の募集話が来て養子の自分が行った。吉林駅で降り、トラックで着いた小屋で翌日から兵隊の相手を1日に20人はさせられた。兵隊の言う通りにしないと殴られた。誰かが自殺してもひどいことをされた。軍人に非難したら「国の命令であり天皇の命令である。言いたいことがあるなら天皇に言え」と言って私を殴った」「日本人が私たちにしたことは、あまりにもひどいです」「昭和天皇には言いたいことがたくさんありました。部隊では「天皇の命令だ」と毎日のように聞かされていたからです」 

<郭 金女 1924.1.8 – 2007.6.7>
8歳の時父が死に子守して働いた後、16歳で光州の製紙工場に働いた。1年後くらいに拳銃を持った刑事らしき人が来て、「パンや飴を作るソウルの食品工場で働くと、お金が貯まるしお腹がいっぱいになるので行くように」と言われた。ソウルに汽車で行ったあと、牡丹江に行くというので、行かないと抵抗すると「朝鮮は植民地なので、どっちみちお前たちは死ぬのだ」と言われ、無理やり列車に乗せられた。国境地帯で慰安婦させられた。「私の体は刀傷だらけです」その後逃げ出した。「逃げられなかった娘たちがどれだけ殺されたことか。世界にこのような仕業をした国がどこにあるでしょうか。私の本音を言うと、日本人は非常にあくどい悪魔です」「私が今まで生きてこられたのは「日本に仇を討たなければ」という強い意志があったからです」

<文 玉珠 1924.4.3 – 1996.10.26>
8歳の時父親が死に、10歳の時からお手伝いの仕事、15歳ころから靴下工場で2,3年働いた。その後顔見知りの松本と言う男から「ちょっと遠い所の食堂だが、そこで働けばお金が儲かる」と言われて 家族に黙って行った。1942.7.9てぐ駅から釜山に行き、船に乗ってラングーンに着いた、船底に150~200人いた。朝鮮人兵隊に慰安婦として配属されたと聞いて自殺してしまった人もいた。前線のマンダレーに慰安所が三か所あって、朝鮮人だけだった。1日30~70人もの相手をさせられた。兵隊は切符を持って来る。「料金は兵士1円50銭、下士官2円、尉官2円50銭、佐官が3円でした。月に1回、私たちにその半額が現金で渡されました。だけど、この中からご飯のおかずや服やタバコを買い、つらい時には酒も飲んだので、みんな生活費になってしまいました」その後アユタヤの陸軍野戦病院で終戦を迎えた。「私の人生がこんなになってしまったことへの道徳的な謝罪を日本にしてほしいです」

<李 桂月 1921.9.6 – 2005.10.19>
5歳の時に父が死に、小作の家から追い出されて、母・兄・二人の妹と共に乞食をして2年暮らした。母親は再婚、自分は8歳で子守になり、13歳で旅館の下女奉公をした。3年経った1937年3月、区長に勧められた働き口を断ったら、翌日、区長の手下の洞長に無理やり駅に引っ張られた。兵士と将校がいて無理やり貨車に押し込まれ、ハルピンで降り、日本軍駐屯地に連れられ、「天皇の命令でお前たちはここへ来たのだ。死ぬか生きるか選べ」と脅された。 朝8時から夜中の12時過ぎまで、30~40人の相手をさせられた。「皇国臣民の誓」を馬勲章できないと顎を殴られ、あごの骨が歪んでしまった。 「日本から受けた野獣のような仕打ちを考えると、今でも憤りで全身の震えが止まりません。何の罪もない幼い多数の朝鮮人女性を「慰安婦」にして虐殺した大罪について謝罪するどころか、国家として何の関与もしていないという日本の態度に私は怒りを禁じ得ません」「私自身一銭ももらったことはないし、一部の奴らが言うような商行為などではありませんでした。ありもしないデマを流すことは決して許されません」

<姜 徳景 1929.6.13 – 1997.2.2>
国民学校で挺身隊に行くものはと問われ誰も手を上げなかった結果自分が行くことになった。1944年、釜山から船に乗って下関から汽車に乗り富山の不二越が挺身隊の職場だった。「箸で一粒ずつ数えながら食べるくらいの量しかご飯がなかった」。それで不二越から逃げ出したが憲兵につかまり、犯され、松代で慰安婦をさせられた。解放となり、自分の身の上が哀しくなって玄界灘で死のうと思ったが見つかってかなわなかった。 「富山で「挺身隊」として働いたときも、捕まえられて「慰安婦」にさせられたときも、お金は貰うどころか見たこともありません。ですが、お金をくれというのではありません。私たちが犠牲にされたようなことが、二度と繰り返されないようにしてほしいのです」

<李 福汝 1919.4.18 – 1993>
4人兄弟で両親を亡くし、乞食をしていた。17歳の夏、兵隊か巡査かわからない二人の日本人が髪の毛をつかんでトラックに乗せた。水原の駅からハルビン、牡丹江と次々に女たちが下ろされ、私は20人ほどと東寧県で下ろされトラックでプチャゴルに連れていかれ、その日から強姦された。「天皇と軍の命令だ。いうことを聞かないと殺す」といった。反抗した女たは木につるされて殺された。足の神経を切られたり、熱く焼けた鉄板を押しつけたり、最後は食事に毒を入れられ遅れた自分だけが助かった

<金 学順 1924.10.20 – 1997.12.16>
父親が独立運動のため満州にいた。14歳になって平壌の妓生券番学校に通う。養父と中国に行ったとき最前線の部隊に連れていかれ、襲われる。1日10~15人の相手をさせられた。通りがかりに泊まった朝鮮人商人を頼ってともに逃げた。南京、徐州など転々とし、上海で金九先生と出会い、光復軍とともに1946年帰国した。「私の人生がこのようになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。いまの日本や韓国の若者は、こんなことがあったのを知らないので、事実を教えなくてはいけないと思っています」
1991年8月14日 金学順(キムハクスン)の体験公表に続いて、フィリピンのマリア・ロサ・ヘンソン、インドネシアではマルディエム、朝鮮では李京生(イギョンセン)が公表した。



徴用工にせよ、請求権で問題になっているが、「金大中氏が今度の選挙で組んだ金鐘泌キムジョンビル自民連名誉総裁は、「日韓条約」締結での「請求権問題」を中央情報部部長として大平正芳外相との秘密会談で合意した人物である。 この取り決めが、韓国人被害者たちからのあらゆる補償要求を日本政府が拒否する根拠になっている」と筆者は明かす。 日本政府が拘るのは、この密談のせいなのだろうか、真相はわからない。













伊藤孝司「無窮花ムグンファの哀しみ」(風媒社 2014.2.28)
[証言]<性奴隷>にされた韓国・朝鮮人女性たち
はじめに
証言
 私自身が強制連行の最も確かな証拠ではありませんか 盧 清子
 朝鮮人の特攻兵と一緒に泣いたこともあります    李 貴粉
 朝鮮語を使っただけで「トキ子」は首をはねられたんです 金 英実
「処女供出」の名目で私たち3人が連行されました   李 相玉
 16歳の時、警察で拷問され気がついたら福岡の「慰安所」でした 沈 美子
 朝鮮と中国の女性150人を並べ首切りを始めたんです 金 大日
 空襲が激しくなっても「慰安所」には兵隊が並びました 姜 潤愛
 反抗した裸の女は性器を拳銃で撃たれて殺されました 黄 錦周
 殺された「慰安婦」たちは地下室へ捨てられました  郭 金女
 ひとりで1日30~70人もの相手をさせられたんです 文 玉珠
 「妊娠して役に立たないから殺す」と言って、お腹を軍刀で切ったんです 李 桂月
 勤労挺身隊として行った日本で「慰安婦」をさせられました 姜 徳景
 兵隊は彼女の首を切りその煮汁を飲めと強要しました 李 福汝
 日本や韓国の若者に事実を教えなければなりません  金 学順
ルポ
 奪われた記憶を求めて
 日本への恨、戦争への恨
 朝鮮で暮らす性奴隷被害者たち
 無窮花につつまれて


 

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