ミシェル・ウエルベック「セロトニン」

48歳のフロラン=クロード・ラブルストは抗鬱剤のキャプトリクスを欠かすことが出来ない。キャプトリクスは次世代の抗鬱剤でセロトニンの分泌を促進するという。この薬はたぶん作者のフィクションだろう。セロトニンが吸収され減少するのを阻害する薬はあるが、分泌を増やす薬は効いたことがない。できたらよく売れるだろうが、副作用が性的不能という(小説の都合だろう)。かなり放縦なフロランにとっては皮肉のような副作用だがそれでも飲まない選択はないらしい。ただ、症状は詳しく語られていない。

フロランのようなうつ病とは違うが、同じセロトニン不足が原因と言われるパニック障害に、私は30年ほど前になり、ここ10年ほどは殆ど症状はない。軽い障害だったから仕事には何の支障もなかったが、それでも満員電車にも、高速を走るシャトルバスにもほとんど乗れなかった。9階くらいまでならエレベーターも避けた。つまり、けっこう不便だったわけだ。

フロランは、モンサントを経て、農業食糧省で仕事していたがそれも辞め、パートナーの日本人女性との生活もウンザリして、「蒸発」することに決めた。親から引き継いだ金も少しあるから、当面の漂流には困らない。しかし、旅する先々で記憶のかなたから呼び起こすのは、かつて愛して別れた人々のことだ・・・・。そして、どうしても拭えないのは、自分は人生に失敗したという感覚だ。もうやり直すこともできないのだという、沈潜した感覚だ。 それは、隠しようのない事実なのか、セロトニン不足のせいなのかはわからないときもある。

「ぼく自身の職業上の野望はもっと曖昧だったので、挫折も目立ちにくかった。しかし、自分が人生に失敗した感覚はぼくにも同様にあった。かつて恋人同士だった四十代の負け犬の再会は、フランス映画であれば絵になるシーンが繰り広げられただろう」

しかし、やはり、隠しようのない事実なのだろう。

「学業時代が唯一の幸福な時代なのだ、未来が眼の前に開け、何もかもが可能に思われる唯一の時代で、大人になり、仕事を持つと、人生は次第に停滞していくのだ。おそらくその理由から、青春時代、学生の時に培った友情だけが真の友情と言えるのだが、これは大人になると続かない、自分が人生に絶望し、潰されてしまっているという明白な事実に直面し、それに気づかせてしまう若き日の友人に再会するのを避けるのだ」

そして、ついつい、かつていちばん最初に愛した女性の現在を探り、あわよくば、もう一度やり直すことが出来ないだろうかと妄想してしまう、そんなところは哀れで身につまされる
 
「今振り返ってみて、自分の人生は終わってしまい、人生は大した合図もせずに脇を通り過ぎていったと気がついた。それから人生は自分のカードをそっと優雅に優しく取り上げてしまい、ぼくたちの元から去ってしまったのだ。本当に、よくよく見ると、僕たちの人生なんて長くはないものなのだ」


ミシェル・ウエルベック氏は、あのセンセーショナルな小説「服従」の印象が強い。この小説も、その社会的な影響などを期待したのだが、だいぶ趣が違い、別人の小説のようだった。はっきり言って、私にはちっとも面白くもない。特に前半は。昔、英会話のアメリカ人男性教師に趣味は何かと聞かれ、映画を見ることだ、しいて言えばフランス映画だと答えたら、アメリカ人から見るとフランス映画はポルノ映画だとけなすので、あなたはヌーヴェルバーグも知らないのかと、つたない英語で反論したことがある。前半は、そんなことを思い出すほどの内容だった。

ウエルベック氏らしい台詞は所々には転がっていたので、いくつか挙げておこう。 話の筋道にはほとんど関係ない。

「彼らはぼくがシニアのふりをしているのをすぐに見抜き、特にイギリス人のリタイア世代からは冷たい扱いを受けた(でもそれは重要ではない。イギリス人は人種差別主義者で、そのソフトヴァージョンが日本人だと言えるだろう)」

「愛情はある種の差異をベースにしなければ発展しないと確信した、似た者同士は決して恋に落ちないのだ、差異といっても様々ではあるが」

「他の国でも共産圏でも、お金はお金のあとをついて行き、権力に従った、これが社会組織の結論なのだ」

「全体的なカタストロフィーの空気はいつでも個人的カタストロフィーを少しばかり和らげるもので、だから戦時中は自殺が稀なのだろう」



 




ミシェル・ウエルベック「セロトニン」(河出書房新社 2019.9.30)

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