雨宮処凛「この国の不寛容の果てに」

2016.7.26 に相模原障害者施設、津久井やまゆり園で起こった障害者殺傷事件は、それ自体たいへん衝撃的な事件だったが、その犯人の植松聖被告の犯行の動機が、更に驚愕のものだった。日本の莫大な借金を減らすためにも、生きる価値のない障害者、生きていても不幸しか生まない障害者を殺すことは正しいことだと。

この障害者に対する驚くべき不寛容さはどうだろう。 筆者は、「金に余裕がなくなると心にも余裕がなくなるという身も蓋もない事実」を挙げながら、「社会から寛容さは消え、ゼロトレランスが幅をきかせるなかで、「自己責任」という言葉はもはや、この国の国是のようになっている」と、不寛容と自己責任がセットになっていると指摘する。

たとえば、2007年の貧困問題への意識調査で、貧困層を支援するのは「国や政府の責任である」という考えに「そう思わない」が日本は突出して多い(38%)。 アメリカでさえ28%なのにと。どうしてここまで、冷たい他人事、自己責任論が蔓延してしまったのだろう。 

石原慎太郎氏らが繰り返していた差別的発言を日本人は大した批判もせずに受け流してきたせいだろうか。筆者はひとつのターニングポイントに、2004年4月に起こったイラク日本人人質事件を挙げる。テレビ報道に、顔をゆがめて「ほんっと迷惑な人たち!」と、吐き捨てるように言う人、「国際情勢や中東のことなんかまったく詳しくなくても、「われわれの税金が使われたかもしれない」という一点で、人はここまで誰かを恨むことができるのだ、と」。 

そして最近の例では、古市憲寿氏と落合陽一氏の「文学界」(2019.1月号)での対談で、「「日本にはもう財源がないのだから、終末期医療をやめるのはやむを得ない」といった論理が平然と語られてしまう」。厚生労働省のデータでも、所謂終末期にかかった医療費は約9000億円で、同年度の医科医療費の3.3%にすぎない。古市氏らの「延命治療をやめるか保険適用外にすれば財源が浮く」という議論はでたらめなのではないか。

大体、社会保障費増大が財政破綻を招くというのも本当なのか怪しい。日本の社会保障給付費(対GDP比)は2040年で24%とされていて、それは、「フランスやスウェーデンの現在の数字よりも少ないし、現在の21.5%からみても数ポイントの増加にとどまります。これが日本の財政を破綻させるかといえば、それは言い過ぎではないでしょうか」。 むしろ、政府がアメリカから買う予定のF35戦闘機、その額は維持費込みで約6.2兆円で、「試算によるとF35の6機分のお金で日本中の待機児童が保育園にはいれるそうです」

なぜ、必ずしも使い道が明朗公正とは思えない税金を使うからと言って、障害者や弱者や病人に対して冷たくなれるのだろうか。 

不摂生した結果多額な人工透析が必要になった病人に対する怒りだろうか。 努力で克服できる幻想が流通したために「努力の足りない障害者」という烙印を押された障害者に対する怒りだろうか。 若者は低賃金で苦労し年金も期待できないのに、よい時代を生きて年金受給している老人を許せないのだろうか。


親子でもない第三者や、あるいは「社会」の側から「「この子には価値がない」とか「苦労して育てる意味がない」と判断する資格は」ないだろう。また、コミュニケーションが取れないというが、コミュニケーションには、「送信者と受信者がいます。表現されたものを受信者が理解できなかったとしても、送信者側だけに落ち度があるとは言えません」。健常者でもコミュニケーションの通用しない人はいっぱいいる。




どうしたらよいのか、必ずしも本の中で述べられていない、私の勝手な忖度もあるが・・・・

「当事者が自立生活をしたいと言えばそれをサポートし、施設がいいと言えばそれが可能になる条件を整えることが求められます。そして、いつでも自由に行き来できるべきでしょう」

植松被告は、世界経済を救うために、「それこそ善意でやったのだと言いたげ」だが、「聞く耳を持たない善意ほど怖いものはない」。「青い芝の会」のスローガンのひとつに「われわれは愛と正義を否定する」という有名な言葉があるが、そういう大上段をまずやめることだ。

「障害者にも生産性がある」という反論は良くない。この言い方では、「優生思想の枠組みの中でしか反論てきていないことになる」

「「他人に迷惑をかけるな」と子どものころから言われ続けていて、弱者であるということは自分が迷惑をかける存在だと認めることになるから、生活が苦しくても他人にも公的福祉にも頼らず生きていこうとする」。 みな、他人に迷惑をかけ合って生きているのだから、「迷惑」を気にしすぎない。

森川すいめい氏は、こんな示唆をしている。「自殺の少ない島の人たちは、話を聞いても解釈はしない」「解釈をしたとしてもその解釈を唯一としない」。つまり、ひたすら聞くことがよいのだ。オープンダイアローグは、フィンランドの精神医療で始まったが、これも、自分の話を聞きとってもらう、ただそれだけ。そのうち、他者に対してもそれができるようになる、と。

向谷地生良(むかいやちいくよし)氏の「べてる」の家は、こんなスローガンがあるという。「手を動かすより口を動かせ」「今日も、明日も、あさってもずっと問題だらけねそれで順調」。この明るさは希望だ。さすが、ベーテル(神の家)という町の名をとっただけのことはある。向谷地の「当事者研究」は、障害者の「経験を社会に発信することで、この世界に違った種類の言葉を送り込んでいくということ」という。 そう、当事者からの発信は、令和新撰組のお二人を見ても、絶対強いとおもう。





雨宮処凛「この国の不寛容の果てに」(大月書店 2019.9.13)
私自身の「内なる植松」との対話
第1章 植松被告は私に「いつまで息子を生かしておくのですか」と尋ねた 神戸金史
第2章 「生産性」よりも「必要性」を胸を張って語ろう 熊谷晉一郎
第3章 命を語るときこそ、ファクト重視で冷静な議論を 岩永直子
第4章 ロスジェネ世代に強いられた「生存のための闘争」の物語 杉田俊介
第5章 みんなで我慢するのをやめて、ただ対話すればいい 森川すいめい
第6章 植松被告がもしも「べてるの家」につながっていたら 向谷地生良


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