関裕二「検証 邪馬台国論争」

古くは松本清張などが歴史学者の世界に殴り込みをかけたかのような話題もあった、有名な邪馬台国論争だが、関連するものを読んだことはなかった。古代史は面白いとは思うが、どこかという所在地の議論にはあまり興味がなかった。

あらためて筆者がまとめた論争の経緯や、論点などを知ると、大陸・半島との関連、渡来人と縄文人、鉄の流通、出雲・吉備との関係、神武東征や神功皇后との関係性などなど、邪馬台国が北部九州でも畿内でも、どちらであっても、大変興味深い話題であることは確かだ。 筆者は、魏志倭人伝だけでは所在は決め難いとし、また、考古学の近年のすさまじい研究成果、つまり物証だけにたどるのもナンだし・・・と、日本の史料、日本書紀が嘘を書いたところを炙り出して、邪馬台国を明らかにしようとしている。 

筆者が最後に展開する筆者の邪馬台国論は、真偽は別として、神話と歴史が混然とした、甚だ危険だが、たいそう面白い話題だ。山幸彦と海幸彦、浦島太郎、神功皇后と武内宿禰、神武東征・・・などなどの話題がこれでもかと展開されていて、倭国の乱によって、いままで独占していた鉄の流通を畿内・吉備の連合王国であるヤマトに奪われた北部九州の山門の女首長が、起死回生の逆転劇として魏に朝貢し、倭の国王と自称したのだろうと。

邪馬台国論争はその所在地をめぐる論争ばかり目に付くが、大和朝廷との関係、つまり、邪馬台国=ヤマト、邪馬台国→ヤマト、邪馬台国とヤマトは別物・・・等々のほうが興味深い。 主な邪馬台国に関する「説」を挙げておく

・ 「史上最も早い邪馬台国解釈は、西暦720年に編纂された「日本書紀」によって行われた。(中略)「日本書紀」の編者が、邪馬台国を畿内のヤマトに、神功皇后を卑弥呼に比定していた」・・・まあ、これは「日本書紀」は「小説」と思えばよいという意見もあるからね

・ 「次に邪馬台国を論述したのは、南北朝時代の北畠親房で、やはり邪馬台国をヤマトと同一視している」

・ 「邪馬台国論争の嚆矢は、江戸時代中期の新井白石や本居宣長にまで求められる。 国学の隆盛とともに、それまで見向きもされなかった「古事記」が注目され、ヤマト(大和)と邪馬台国が同一視されるようになった」が、本居宣長らは「邪馬台国偽僭説」をとる。それは、「天皇を中心とする政治体制への復古を理想と」するので、「神である日本の天皇家の祖が魏に頭を垂れて朝貢したはずもないとして、卑弥呼を天皇家の血縁に比定することができなかった」ことから生まれる

・ 白鳥庫吉の九州説と内藤虎次郎(湖南)の畿内説による論争・・・白鳥の九州説では、ヤマト朝廷は邪馬台国と別に畿内に存在していた。卑弥呼・台与と第10代崇神天皇とは同時代人と。 一方、内藤湖南は卑弥呼を「日本書紀」に現れる倭姫命と同一人物とした。倭姫命は垂仁天皇の皇女、初代の斎宮、伊勢神宮の創始に深く関わる。

・ 東洋史学創始者、那珂通世は卑弥呼の100年後の神功皇后を同一視する日本書紀はおかしいと、やはり「邪馬台国偽僭説」をとる

・ 和辻哲郎は九州筑紫の邪馬台国が東に移動してヤマトになったという、邪馬台国東遷説をとる

・ 富岡謙蔵は考古学の見地から畿内説。畿内の古墳から発見される鏡は魏呉蜀以降のもの

・ 日本書紀を作った「八世紀の朝廷は、天皇家の祖を邪馬台国の卑弥呼に比定していた」。天照大神の名を大日婁貴(おおひるめまむち)と書き、この「婁」の字は「巫女」なので、「大日巫女」、これが「ひみこ」を意味している、という。

・ 榎一雄氏は魏志倭人伝の帯方郡から邪馬台国へのルートの解釈に「放射説」を説く。これは説得力ありそうだったのに。

・ 大森志郎氏は、上代仮名遣いから山門説を否定

・ 松本清張氏は「古代史疑」を連載し、帯方郡からのルートに三五七に拘った数字を読み解くと北部九州説をとり、山門を比定。

・ 地理学者室賀信夫氏は、中国から見た地理感覚を考慮すれば、魏志倭人伝のルートを90度ずらすべきとして、畿内説をとる

・ 心理学者安本美典氏と親鸞研究家古田武彦氏の論争・・・安本氏は甘木市付近に想定して東遷論をとる。日本書紀の天皇在位期間を常識的に修正すると神武天皇は紀元前660でなく西暦270~300に、三世紀前半に天照大神(卑弥呼)がやって来る。ヤマト朝廷は邪馬台国を継承。

・ 原田常治氏は「これまで見向きもさなかった神社伝承に注目し」、卑弥呼と天照大神を結びつけ、邪馬台国を宮崎県に比定した

とまあ、百人百論、といった趣だ。

邪馬台国の所在は別にして、興味深いトピックは、ほかにもあった。

・ 「何回にもわたって海の外から流入した人びとの混血のうえに日本人ができている」、「日本人のなかに含まれる縄文人と渡来人の血の濃さは、一対二とも、一対三ともいわれる」

・ 三輪山麓の纏向遺跡(まきむく)は、倭国の乱、卑弥呼擁立の時期の人工都市で大都会だった。 第十代の崇神天皇が定めた都か。

・ 「一つの強大な勢力による破壊的な創造ではなく、寄せ集まった各地の首長層の合意・総意のもとで完成」、「すなわち、「日本書紀」や「古事記」のいうような、「神武東征」や、渡来勢力による「征服劇」といった類の仮説は成立し得ない」

・ 「北部九州に独占されていた鉄の流通を畿内・吉備の首長連合が、二世紀末に「西征」し奪い取ったのが倭国の乱であり、卑弥呼を共立し、畿内大和に都を置いて邪馬台国になった」

・ 「日本書紀」は一貫して新羅を敵視しているから、神功皇后に新羅の地が入っていたと暴露したのは、「日本書紀」が神功皇后の存在をおもしろくおもっていなかった証拠

・ 宗像三神の子が住吉で、更にその孫が宇佐、応神天皇、神功皇后の子。仲哀天皇のなくなったばん夜、神功皇后と住吉太伸は夫婦の関係になったという。住吉大伸は蘇我氏の祖・武内宿祢

・ 「物部氏は3世紀から7世紀まで、ヤマト最大の豪族であり続けた。しかし、8世紀初頭、藤原不比等の陰謀によって没落させられている。「日本書紀」は藤原不比等の主導の下に編纂されたものとされているから、物部氏の過去の活躍を抹殺する動機が備わっていた」


関裕二「検証 邪馬台国論争」(KKベスト新書2001.9.1)
序章 邪馬台国論争と現代史
第一章 邪馬台国論争の背景
第二章 邪馬台国論争の顛末
第三章 考古学から見た邪馬台国
第四章 邪馬台国を解き明かす
第五章 邪馬台国のありか




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