アリエル・バーガー「エリ・ヴィーゼルの教室から」

たいへん読み応えのある興味深い内容であるが、正直に言えば、わたしには本当のところは理解できていない。70年も生きてきて、大していいこともなかった人生だなと振り返るが、エリ・ヴィーゼル氏のような過酷な体験を味わいながらも、宗教家として、作家として、教育者として世界に貢献し続ける、そんな前向きで明るい姿に、我が身が恥ずかしくなる。

ボストン大学で教鞭をとるエリ・ヴィーゼル教授の弟子であり助手であるアリエル・バーガー氏が自身のプライバシーをさらけ出しながら、ヴィーゼル教授の教室の風景を語っている。ヴィーゼル氏の伝記ともいえない、講義内容の説明でもないし、もちろん交遊録でもない、なかなか不思議な本となっている。 

訳者は、「道義的責任を負い、感受性をそなえ、正義を追求するヒューマニストを生み出すことを意図した教養教育という、たぐいまれな授業」と言う。 アリエルは、「エリ・ヴィーゼルの教え子であるとは、あるがままの自分自身が、たえず自分のヒューマニティや他者に対する思いやりを深めてゆくことだ」と、授業の特別さを指摘する。「学生を単なる受け手に留めおかず貢献者へ位置づけるもの―積極的かつ参加型の学習空間を創り出すための基本理念なのだ」とか、「学生の個人的な物語に照準を合わせるのがヴィーゼル教授ならではのパターンである。(中略) 抽象的な観念よりも個人的な境遇の方に心を砕く」という。

ところが、エリ・ヴィーゼル教授が教育にこれほど力を入れていることは、実はあまり知られていないことで、それがアリエルがこの本をつくろうとした動機らしい。 教授の思いは「死者の霊につきまとわれた世代の一人であるヴィーゼルは、自分の記憶を他者の救済に役立てるべく探求することを生涯の仕事にした」ということに現れている。

エリ・ヴィーゼルは、ホロコーストの証言者、「夜」の著者、ノーベル平和賞受賞者であって、ユダヤ教のラビでもあるから、その言葉は、たいへん深い意味がうかがえる。 もちろんハシディズムの内容など、宗教的な言説は理解できないのだが・・・・それらの言説をつまみ食いさせていただく。

・ 「記憶とはわたしたちを絶望の奈落へ沈めるための重しなのか、それとも他者の苦悩を受けとめる力をなんらかの形で授けてくれるものなのか」

・ ハシディズムのことわざ「健忘は流刑を招き、記憶は救済を招く」

・ 「歴史を学ばぬ者は歴史を繰りかえす、という決まり文句がある。しかし、情報をもくもくと機械的に受けわたしてゆくだけでは、次の悲劇を防ぐためにはまったく役に立たない」

・ 「ヨシュア記には、詩歌が含まれていない」ことから、「暴力が描かれた場所に詩歌は同席しえない」

・ 「我々にできるのは物語を語ること、語らなければならない。ですが、語るためにはまず物語を聞く必要があります」。そして、「証人の話を聞いたあとは、あなたも証人になる」

・ 「民衆が聞きたいことを耳に吹き込み民衆のなかにすでにあった恐怖をあおりたてるプロパガンダと違って、道徳的教育は、たとえ耳障りであっても、聞く必要のあることを告げる。「にせの預言者と本物の見分け方はこれです」と、彼は教室で繰り返した。「にせは心地よく、本物は不安にさせる」

・ ヨブ記は、「報いと罰則にかんする初期教理を鵜呑みにしすぎないよう、それで人を攻撃したりしないように仕込まれた安全弁のようなものです。自分が受けている苦難を理解しようとするときには使ってもいいですが、他者の苦難をそれであげつらうことはできません」

・ 「愛の反対語は憎しみではなく無関心である」というヴィーゼルの主張に沿うならば、「悲劇を回避することが不可能な場合でも、少なくともわたしたちはそれに対し抗議しなければならない」 

・ 「神が人間のどちらかを選ばねばならぬときには人間を選ぶべしということです―神は一人でもやって行けますから」

・ 「アウシュヴィッツでは三人のラビが神を裁きにかけた。彼らは神を告発する立場と弁護する立場の両方から弁論し、神は有罪であると判決を下した」という。「もし神が正しくなかったとしても、わたしたちは依然として神に正義を求めればいいのです」ともいう。しかし、それも「すべて神のため」で、祈り続け事には変わりない。この考え方は新鮮だ。

・ ハムの子孫がアフリカ人になったという神話がある。ハムについてのノアの呪詛が「ツチ族とフツ族を反目させ」、1994年のジェノサイドを引き起こすことになったという説もある

・ 「狂信者の信仰心には疑いがない。彼らも疑いを持たなければいけません。人間であるとは疑うことなのです」

・ 「アンネの日記」から一番多く引用される文章は、「なぜなら今でも信じているからです。たとえいやなことばかりだとしても人間の本姓はやっぱり善なのだと」、しかし教授は、アンネがベルゼン収容所でチフスで死ぬ前にも、この言葉を綴っただろうか、それはわからないと悲しむ

・ 「「良心の行使を代理人にやってもらうことは可能か?」答えはノーです。そんなことは不可能です。あなた自身がみずから行動しなければなりません」

・ 「20世紀とはサラエヴォに始まりサラエヴォに終わる悲劇の道程だった」

・ 「今日起きていることを理解したいなら過去に目を向けなければいけません」

・ 「カインは弟だけを殺したのではなく、弟の子孫になるはずの者すべてを殺したのだ」

・ コウノトリは猛禽類でもなく「優しい鳥」なのに、コーシャー(清浄な)食品ではないことを喩に、「やさしさと思いやりは自分たちのコミュニティの内部だけで終わってはいけません」

・ 言葉の限界について、「ホロコーストにかんする自分の証言を世界に伝える必要性と、その不可能性とのあいだで、彼は苦しんでいた。口には出せないことをどういえばいいだろう、言語に絶する内容をどう伝えればいいだろう?」

・ 「圧制者がよく使う手が、人工的に作り上げた言語で事実を曖昧にするやり方です。(中略) 言語をゆがめるのは簡単です。戦争中、決まって最初に死ぬのは言語です」

・ 「「憎悪がどう機能するか、わたしたちは微に入り細に入り知っている」とかれはいう。「最初は言葉から始まり、そしてシンボルが掲げられ、最後は殺戮へ走るということを知っている」


教授が授業で使った「推薦図書」が数多く挙げられている。 その中で、読もうかなと思った幾つかを書いておこう。

ウォルト・ホイットマン「私自身の歌」、アリエル・ドーフマン「死と乙女」、ワシーリー・グロスマン「人生と運命」、アーサー・ケストラー「真昼の暗黒」、エリ・ヴィーゼル「夜」、エウリピデス「王女メディア」、カフカ「審判」、ハイム・カプラン「ワルシャワ・ゲットー日記」、アルベール・カミュ「シーシュポスノ神話」、セーレン・キルケゴール「おそれとおののき」、ベルトルト・ブレヒト「肝っ玉おっ母とその子どもたち」



アリエル・バーガー「エリ・ヴィーゼルの教室から」(白水社 2019.10.10)
はじめに
第1章 記憶
第2章 他者性
第3章 信仰と疑い
第4章 狂気と反抗
第5章 積極的行動主義
第6章 言葉を超えて
第7章 証人



この記事へのコメント