夏石蕃矢編「山頭火俳句集」

種田山頭火は、1882(明治15)年12月3日、山口県に生まれ、1940(昭和15)年10月10日、58歳で亡くなった。 早稲田大学を神経衰弱で退学したあと故郷で父の酒造業を手伝い、妻子をもち、29歳で山頭火の名で文芸雑誌に参加、その後終生の師、荻原井泉水に師事、自由律俳句にうちこむ。酒造経営が破産し、熊本に移住して古書店経営、上京して図書館勤務などに従事するが、38歳で離婚、41歳で関東大震災に合い、熊本に帰郷する。43歳で出家得度、その後、僧侶として行乞・放浪の生活、庵での生活を繰り返しながら、個人句集を第7句集まで作りつつ、不眠と憂鬱からアルコール中毒となり、泥酔してはトラブルを招くような生活となる。 夏石氏の解説には、「自由律俳人、放浪の俳人、酒乱の俳人、自堕落な俳人」と言われていたことが紹介されている。

当句集は、夏石氏が、日記等にあった未発表の句もふくめ、約1000句を推測も交えて、時系列に並べた俳句集、そして、山頭火自身が残した日記と随筆数編からなる、なかなか読みでのあるものだ。晩年は日中戦争にのめり込んでゆく時代で、その空気も感じることが出来た。

いかにも、あの時代の破滅型俳人といった趣だが、当時の「芸術家」としてはごく自然だったのかもしれない。山頭火の随筆の言葉が、それをうかがわせる。

・「自己を傷つけることは苦痛であるが、傷いた自己を観ることには感興がある。その苦痛が強ければ強いほど、それだけその感興も強い。――これが近代芸術家の痛ましい心境の一面である」
・「燃ゆる心である。音も香もなくしてしんしんとして燃ゆる心である。―-かかる心が、かかる心のみが詩を生むことが出来る」

山頭火の句ばかりでなく、俳句をたしなむ術を知らないから、良い悪いはまったくわからない。 それでも、妙に気に入った句もある
    「ともかくもけふまでは生きて夏草のなか」
    「父によう似た声が出てくる旅はかなしい」
    「分け入っても分け入っても青い山」


あとは、日記や随筆から、印象に残ったエピソードを挙げておく
・ 「降り出したので合羽を着てあるく、宿銭もないので雨中行乞だ、少し憂鬱になる、やっぱりアルコールのせいだろう、当分酒をやめようと思う。 早くどこかに落ちつきたい、嬉野か、立願寺か、しずかに余生を送りたい」
・ 「「放哉書簡集」を読む、放哉坊が死生を無視( 敢て超越とはいわない、彼はむしろ死に急ぎすぎていた) していたのは羨ましい、私はこれまで二度も三度も自殺を図ったけれど、その場合でも生の執着がなかったとはいいきれない」・・・「放哉は俳句のレアリズムをほんとうに体現した最初の、そして或いは最大の俳人であると今更のように感じた」・・・尾崎放哉は、より短い二節から成る俳句を多く作った
・ 「芭蕉は芭蕉、良寛は良寛である、芭蕉になろうとしても芭蕉にはなりきれないし、良寛の真似をしたところで初まらない」
・ 「俳句は―自由律俳句はやさしくそしてむつかしい。(中略) 句はむつかしい、特に旅の句はむつかしい」
・ 「省みて恥多く悔多し。借金ほど嫌なものはない」
・ 「かえりみてやましい生活ではあったが、かえりみてやましい句は作らなかった」
・ 「いよいよ覚悟を決めた、私は其中庵を解消して遠い旅に出かけよう、背水の陣をしくのだ、捨て身の構えだ、行乞山頭火でないとほんとうの句ができない
・ 「句作の場合―
  添えるよりも捨つべし
  言いすぎは言い足りないよりもよくない。おしゃべりは何よりも禁物なり。言葉多きは品少なしとはまことに至言なり」



夏石蕃矢編「山頭火俳句集」(岩波文庫 2018.7.18)
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