田中利幸「知られざる戦争犯罪 日本軍はオーストラリア人に何をしたか」

たいへん良い、貴重な本だ。田中氏のような地道な研究者は貴重だ。副題の「日本軍はオーストラリア人に何をしたか」というように、日本軍がオーストラリア人の捕虜に対する虐待・虐殺、オーストラリア人従軍看護婦に対する強姦・虐殺の疑いなどを、BC級裁判資料などに基づいて詳細に解説している。日本軍側の資料はほとんど失われていて、生存者も少なく、真相究明は大変困難を極めている。筆者の推測もかなりある。なかには事実と違う細部もあるやもしれぬが、おおよそにおいて日本軍は許されないことをしたのだろう。筆者は日本人特殊論に陥ることを危惧し、戦争では「普遍的」にありうることと主張されているが、私にはかなりの割合で日本人の特性があるのではないかと想像する

舞台は、ボルネオはサンダカン捕虜収容所における捕虜虐待、終戦間際のサンダカンからラナウ迄の死の行進、シンガポール侵攻直後のマレー半島バカン島の従軍看護婦惨殺、そして、ニューギニアによく見られた人肉食である。 オーストラリア人捕虜の問題としては、連合軍捕虜65000名のうち12000という大量の死亡者をだした泰緬鉄道建設がよく語られるが、人数は多くても、生存率からみれば80%と高い。それにくらべてサンダカン捕虜収容所は、「1943年9月時点では約1800名のオーストラリア軍捕虜と700名のイギリス軍捕虜が収容されていたが、戦後まで生き延びたのはこのうちわずか六名であった」

サンダカンの捕虜の扱いについて、当初は給与も支給し問題も少なかった。しかし責任者の変更や、捕虜が連合軍上陸の際蜂起できるように準備してそれが明るみに出た「サンダカン事件」、戦局の雲行きが怪しく、食糧も少なくなって徐々に過酷なものになった。そもそも、日本政府は、「ジュネーブ条約を準用するという内容の外務大臣声明を発表している」が、政府や軍は「明らかに軍事生産や軍施設の建設に捕虜の労働力を利用する計画を最初から知っており、これが国際法に違反することをはっきりと承知していた」。また、逃亡しないと誓約させた「契約書は、「逃亡禁止」と「逃亡者への銃撃」という二点において、明らかにジュネーブ条約違反であった」。

連合軍が近づき、「上官たちの焦りからくる精神的不満のはけ口は捕虜だけではなく、最下級であり「よそ者」である監視員にも求められ、そのため監視員たちもますます粗暴な取り扱いを上官から受けることになる。したがって上官からいじめられた監視員の不満がさらに鬱積され、増加して捕虜のうえに発散されるという、いわば「虐待の乗数効果」を産み出し、捕虜がますます犠牲になっていったのであろう」。 その監視員とは、1943年4月から44年末の間にいた100名ほどの監視員は、そのほとんどが台湾人であった。台湾人監視員は、「日本軍と捕虜の板挟みになり、どちらからも同情されず理解もされないという難しい立場に置かれていた」

1945年1月、連合軍が近づいて、サンダカンから400キロ離れたトスランまで兵力を移動するにともない、捕虜もラナウまでの約260キロを移動させることになった。移動の経路は現地住民に訊いて作ったジャングルや山岳の小道だが、反日的な住民は故意に難儀な場所を選んだという。途中の何か所かのポイントで食糧などは補給すべく計画された。司令部からの命令は、「捕虜の中に落伍者を出さないこと」、裏返せば、「落伍したものは処分せよ」という真の意図を暗示する。二回、何班かに分けて行進した殆どの捕虜が裸足で、熱帯性潰瘍にかかっていて、さらに悪化させた。落伍した捕虜は、途中で放置されるか殺された。

最終的に、「サンダカン収容所の捕虜の中で生き残ったのはラナウから逃亡したこの四人と、第二回行進中に別々に逃亡し、ジャングル内をさまよい歩くうちに現地住民に拾われて米軍に引き渡されたキャンベルとブレイスウェイトの二人、合計六人だけであった」「2500人の捕虜のうち、戦後まで生き延びたのは六名であった」。戦後、豪州は「「死の行進」を発令した軍司令部の責任を厳しく追及した。このため、「死の行進」当時の軍司令官であった馬場正朗中将は絞首刑になっている」

筆者は日本人の特殊性でなく普遍性を強調するが、その言説にもかかわらず、捕虜の死亡率の比較が日本の特徴を示している。日本軍の捕虜となった米・英軍将兵の死亡率は27パーセントで、ドイツ・イタリア軍の捕虜となった連合軍将兵捕虜の死亡率ほぼ4パーセント、という明白さだ。さらに日本軍の捕虜となった豪州軍将兵の死亡率35.9パーセントである。「連合諸国が戦後開いたBC級裁判で起訴された73パーセントが捕虜関係(殺人、虐待致死、虐待、救恤品の横領) であったのも不思議ではない」

さらに日本軍の「特殊性」を示す記事がある。その幹部の潔わるさ、である。1945年9月17日、陸軍大臣下村底が通達した内容は、「連合諸国から捕虜虐待に関して取り調べを受けた場合は、文化・風習の違いから捕虜と捕虜管理者との間に誤解が多くあったことや、台湾人・朝鮮人が監視員を努めていたためであると返答しろと訓令しているのである。戦時中は台湾人や朝鮮人を酷使しておきながら、戦争が終わるや今度は捕虜虐待・虐殺の責任を彼ら監視員に転化しようとしたわけである」。日清、日露の時はそんなことはなかった。もっと国際法を遵守していた。

この本は、捕虜虐殺の話題が多いが、バンカ島における豪州陸軍従軍看護婦虐殺事件、つまり、シンガポール陥落直前に、シンガポールから逃れた従軍看護婦を乗せた船が日本の攻撃を受けて沈没、バンカ島に流れ着いた兵士と従軍看護婦が、日本軍に降伏したにもかかわらず、兵士、従軍看護婦、それぞれ別に虐殺された事件についてもページを多く割いている。

また、人肉食については、読み進めるのも難儀であるが、筆者は、「ニューギニアで「人肉食」というグロテスクな行為を犯した日本兵は、犠牲になったオーストラリア兵、アジア人捕虜、原住民に対しては疑いもなく加害者であると同時に、彼らをジャングルに見棄てた軍指導者たちとの関係においては明らかに被害者であった」と、本当の原因は、ポート・モレズビー攻略作戦の失敗など、現地の調査もろくにせず、机上で計画した大本営に責任がある。


筆者も引用している小田実の言葉をおいておこう。必要なのは、「自己の内なる加害者体験(あるいはその可能性)を自覚し、それを他者の加害者体験と同時に、しつように告発して行く態度だろう」






田中利幸「知られざる戦争犯罪」(大月書店1993.12.2)
日本軍はオーストラリア人に何をしたか
序文
第一章 捕虜虐待とジュネーブ条約
一  知られざるサンダカン捕虜収容所
二  捕虜収容所の設置と労働問題
三  捕虜逃亡問題と契約書事件
四  サンダカン事件と憲兵隊
五  軍律会議で裁かれた捕虜たち
六  捕虜虐待と台湾人監視員
七  食糧配給削減と死亡者の急増
第二章 捕虜虐殺とその責任問題
一  ラナウへの移動 第一団
二  ラナウへの移動 第二団
三  捕虜抹殺
四  十字架はりつけ事件
五  捕虜虐待・虐殺の責任と日本の捕虜政策
六  捕虜虐待・虐殺の心理
第三章 戦争における女性虐殺・強姦・強制売春
一  東京裁判で取り扱われた女性被害者のケース
二  バンカ島における看護婦虐殺事件
三  豪州従軍看護婦に対する慰安婦強要問題
四  慰安所の設立と民間人女性の搾取
五  普遍的問題としての戦争における強姦
第四章 ウエッブ裁判長と日本陸軍の人肉食罪
一  東京裁判と人肉食罪
二  人肉食に関する証言と資料
三  豪州兵被害者
四  アジア人捕虜被害者
五  ニューギニア原住民被害者
六  飢餓が引き起こした集団狂気の日常化
七  日本軍の責任とオーストラリア政府の情報秘匿
八  ウエッブ裁判長が残した問題点









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