黒井千次「老いのゆくえ」

黒井千次ともあろう作家の書く「老い」だから、さぞ、興味深い、深みのある話がちりばめられているのだろうと、ほのかな期待はしたが、みごとに振られた。 あとがきを見たら、きちんと書いてあった。「可能なかぎり率直に、老いていく自分を描き、その感覚や感情を記していくことを目指した」と。「事実、<老い>の進行は数知れぬ失敗や事故や異変を必然的に伴うものなのであり、もしそれを<恥しい>とか<みっともない>とかいって退けてしまったら、<老い>は痩せ衰え、少しも面白いものにならず、ただ乾いた時間の進行に過ぎぬものとなってしまうに違いない」

おなじ老いるなら、老いそのものも面白く考えよう、ということだ。 しかし、面白いことは面白いが、私のような当事者にしてみれば、黒井氏の語る、正直な「老い」の姿は、うんざりである。 外でも家の中でもよく転ぶ、小銭とか食卓の小さなものをよく落とす、電車に乗ると方向を間違える、尻餅をついたらそのまま立ち上がれなくなる、薬のカプセルが飲み下しにくい、ささやかな失敗が多くなった・・・・・

私は、コロナ前まで、朝のラジオ体操の場で多くの年長者に会っていたが、年齢が82歳を超えたあたりから、皆。叔父さんや叔母さんから老人の顔になる。筆者も言っている。「七十代と八十代との間には深い谷間があり、そこ超えるのは一仕事、との感触はあった」。だから、あと十年もしないうちに、黒井氏の書くような、こんな面白く、うんざりする自分が待っていると思うとほんとに困る。しかし、黒井氏は続けて言う。「しかし八十代にはいってしまった後は、(中略) いつか次の到達目標が生まれているらしいのだ」

あと、脈絡なく、いくつかの、私も頷いた随想の一部を挙げておく

・ 「六月の末に到来する夏至なるものが、どうも季節の感触に反するような違和感を覚えるようになった。これからギラギラと輝く太陽の季節が訪れて本格的な夏が到来するというのに、七月になれば早くも昼は短くなり、夜が延び始めるというのはどこかおかしいのではないか」・・・まったく。いつもそう思っていた

・ 「六十代くらいまでは、病気とはやがては治るものだ、と考えていたふしがある」「ところがある年齢に達してから、病気にかかると、恢復はしても、それは以前の状態への完全な復帰ではなく、七割か八割あたりの線にとどまる復帰であるにすぎぬ、と気づかされた」・・・そうなのだ。病気と共に残された時を過ごすといった感じなのだ。さらに、後の時間が少ないなら、今ここで無理に治さなくとも・・と思い始める。 











黒井千次「老いのゆくえ」(中公新書2019.6.25)
Ⅰ 新旧の不自由を抱えて
Ⅱ もう運転しないのか
Ⅲ 降りることへの恐れ
Ⅳ 老いることは知ること


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