ファン・ジョンウン「野蛮なアリスさん」


「誰であれ、この不幸な物語の最後のページまでついてきてくださったただ一人の人であるあなたに、どうぞこの物語が苦痛すぎないものでありますようにと、願います」と、日本の読者向けに作者が語る。確かに、不幸で、辛く、哀しい物語だ。同時に覚える怒りは、どこにも向けられずに内向する。

朝鮮戦争で多くの人びとが身ひとつで南に流れてきた。 また、軍事独裁政権から始まった各地の再開発事業で、持てる者は入居権や土地バブルを足場により持てる者となった。賃貸住まいの貧しい人々は、住むところを追い出されただけで、より貧しくなっていった・・・

そんな貧しい家族のひとつが、アリシアと弟が暮らす、コモリと言う名の貧しい町だった。父は再開発事業に乗り儲けながらも、家族に分け与える男ではなく、外に女を作って家には居なかった。母親は暴力的で何かとアリシアと弟を殴った。アリシアのただ一人の友コミは、クズ屋の父親にいつも殴られていた。

罵倒の言葉と暴力は、韓国映画に、ときとしてみられる濃密な特徴だ。映画「息もできない」のような社会派ドラマならともかく、韓国ドラマ「とにかく熱く掃除しろ」のようなラブコメにすら、再開発やその補償に抗議する住民を暴力的に排除する追い立て屋やバイトが描かれる。韓国ドラマ「ジャイアント」でも、江南地区の再開発にともなう暴力的なドラマが描かれていた。そんな社会的不正義の底流が流れてはいるが、アリシアと弟が直面するのは、暴力と逃げたくなるが逃げられない絶望感だ。 

同じ再開発で一層虐げられる貧しい人々をうたったチョ・セヒの「こびとが打ち上げた小さなボール」は、抗議する人々・家族の団結や心の交流があった。しかし、ここにはそれすらもない。

「虐待なんて、この地域にそんなものはないよ・・・残酷な母性、常習的な暴力、家族の無関心、非情な隣人たち、我々の社会の断面、その他の評価と非難がアリシアの家を中心としてコモリ一帯に降り注いだが、にわか雨とおなじくらい一瞬のことだ」、そして、人びとは忘れてゆく・・・ただひとり、女装のホームレスとなったウリシアを除いては。





ファン・ジョンウン「野蛮なアリスさん」(河出書房新社2018.3.20)


再び、外
日本の読者の皆さんへ
訳者あとがき


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