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zoom RSS 加藤陽子「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」

<<   作成日時 : 2017/02/19 15:42   >>

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加藤陽子氏の近現代史の授業は他の機会でも何度か接している。 中高校生が相手でも、大人と変わらない質問が飛び交い、史料にあたって議論する姿がとても勉強になる。 

満州事変を調査したリットン報告書は、決して日本に厳しい報告ではなく、暴発せずに、「世界の道」に戻り、世界と共に歩もうとする提案に満ちていたから、むしろ、蒋介石政府は受け入れがたい内容だった。 しかし、日本は軌道修正できなかった。

日本が日独伊三国同盟の条約締結に向かう前、外相松ら政治家の説明に納得しないのは、むしろ海軍の首脳だった。 三国同盟によって英米との戦争になる可能性を怖れ、ロンドン軍縮以来、日本の海軍力では英米に勝てると思わなかったからだ。 しかし、海軍は自信がないと明言できず、陸軍との対抗心や軍予算の拡大などの意図で同盟に同意してゆく。

それでも真珠湾にゆくまえ、日米首脳の多くは戦争を避けたいとは考えて日米交渉を続けていた。 日本側は主として、アメリカを利用して蒋介石との停戦和平を実現し、南進したかったし、米国は、英国への支援物資を多くために、独Uボートに邪魔されぬよう、太平洋の戦力を大西洋に回したかったし、明らかに米国内の反戦機運がせ高かった。 しかし、最終的には陸軍と、国民の機運を背景にした右翼団体の攻勢で、そのチャンスを逃したのだ。

上記の3ケースについて、史料の解釈、質疑を繰り返して、当時の関係者・組織の思いをたどってゆく。 知らなかったことがたくさん出てくるのは、近現代史ではほんとうに面白いものだ。 

たとえば、例の対米通告が、野村らの飲み会や寝坊によって遅れて真珠湾が奇襲になってしまったという話は、東郷茂徳を守るための外務省の作り話だと言う事実。

たとえば、「チャプリンは、ドイツ軍のパリ入城の翌日、「独裁者」の演説シーンをパリで撮っている」とはなんと。

たとえば、1945年8月15日、日本の敗戦が伝わった日、蒋介石はラジオの放送で、こんなことを語っていた。「我々は報復してはならず、まして敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはならない。彼らが自ら誤りと罪悪から脱出できるように、[中略] 我々は慈愛をもって接する」・・・このせいもあってか中国からの兵隊の引き揚げは極めて少ない犠牲でできた。

たとえば、政治家たちは真面目に敗戦を受け止め、新憲法を受け止めた。 九条一項にはもともと「平和」という言葉はなかったが、衆議院での片山哲の質問に答えた、吉田茂内閣が「平和」主義を入れて明言した。 片山氏の提案は、「民主憲法は積極的に、日本国は平和国として出発するものであることを明示する、世界に向かっての平和宣言を必要とすると私は考えるのであります」


しかし、なんといっても、加藤氏の掲げる数字が印象的だ。 310万人の戦没者のうち、240万人が海外で死亡した。しかし、日本に帰還した遺骨は127万柱にすぎない。 「日本は、兵士の死に場所や死に方を遺族に教えられなかった国」なのだ。 





加藤陽子「戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗」(朝日出版社 2016.8.10)
1章 国家が歴史を書く時、歴史が生まれるとき
2章 「選択」するとき、そこでなにが起きているのか リットン報告書を読む
3章 軍事同盟とはなにか 20日間で結ばれた三国軍事同盟
4章 日本人が戦争に賭けたのはなぜか 日米交渉の厚み
終章 講義の終わりに 敗戦と憲法









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