平野久美子「牡丹社事件 マブイの行方」

「日本でも台湾でも「牡丹社事件」と呼んでいる一連の事件は、1871年に起きた琉球民遭難殺害事件と、陸軍中将の西郷従道が大軍を率いて1874年に台湾へ出兵した「征台の役」をさす」。日本ではほとんど忘れ去られた事件だが、台湾でも日本でも関係者の末裔は、現在でも細々と真相を探るために調べ、和解を模索している。 沖縄の地に深く傾倒していた筆者がふと耳にしたこの事件を、台湾と沖縄に通いながらそれぞれが納得する和解にみちびくよう協力してゆく。


琉球民遭難殺害事件は、宮古島住民が那覇の王府に年貢を届け、その帰路に台風に遭遇し、69名が台湾南部に漂着した。3名は上陸できずに溺死。66名が上陸して救助を求めて山の中に入った。当初は原住民にも助けてもらっていたが、どういう経緯かは定かではないが、54名が殺害され、首を刈られた。12名は、なんとか逃げ、漢人に助けられて最終的に帰還することが出来た、そういう事件である。 そして、征台の役は、報告を受けた明治政府は、この事件を利用して、沖縄への清国の支配を断ち切ることを主たる目的に台湾に出兵し、クスクス社、牡丹社の原住民部落を攻撃殺戮した。

宮古島住民の末裔から見れば、救助を求めた漂流者を一方的に首を刈るなんてなんと野蛮な生蕃なんだと思い、野蛮な原住民によって被害者になったと思う。「日本軍との戦闘で犠牲になった原住民側の戦死者は、三十名ほどだったらしい。しかし、村を焼かれて山奥に逃げ込んだ人びとには過酷な運命が待っていた。食糧不足や長雨のシーズンがたたり、多くの子どもや年寄り、つまり弱者たちが犠牲になった」。

政治的にも複雑である。「清国にしてみれば東側は確かに「化外の地」だったのだが、外交交渉の場ではまったく不用意な発言と言うしかない。このひとことが、明治政府に台湾出兵のかっこうの口実を与えてしまうことになった。外交交渉が有利に運ぶ中、初めは台湾出兵に消極的だった内務卿の大久保利通らも、内政の行き詰まりを開会出兵によって打破し、琉球が日本と清国の両方に属している現状を一気に解決したいという考えに傾いていった」。「化外の地」なら侵略しても文句はなかろうと、明治政府には格好の口実になったのだ。

「台湾では、牡丹社事件と言えば日本軍が台湾に侵略し、石門の戦いで原住民と戦闘を交えたことをさす。戦後の台湾を長く支配した国民党政権は、明治政府が行った台湾出兵を、かっこうの反日歴史教材としてとらえ、宣伝、教育を施してきた。加害者は日本人」と日本批判に徹した

沖縄の人々にとっても複雑である。台湾の人々には「ヤマトと琉球を区別してほしい」と思う。台湾に侵略したのはヤマトであって、しかも、琉球王国から見れば、ヤマトがこの事件の報復に行くのは筋違いでもあるからだ。

こういう複雑な状況で、事実を追求・理解し、和解するのはたいへんな双方の努力が必要だ。 沖縄の末裔野原氏は、「双方が納得できる史実を確認し、(説明版に)記述することが必要条件」という。パイワン族の末裔であるバジロク氏は、「加害者であると同時に、日本の台湾出兵の被害者」で苦しみは、「あの時何がおこったのか、何が原因で先祖たちは凶暴な感情に駆り立てられたのか?という真相がなかなか明らかにならないことだ」という。

ふたりの言葉が印象的だ。

バジロクさん・・・「あの事件の末裔であるということは私に和解の責任があるということです。(中略) 互いの文化や伝統を知り、尊敬し合うことで、お互いの不信感やこだわりも溶けていくのです。愛と平和の関係が築けることを心から願っております」

文化人類学者の黄智慧さん・・・「バイワン族だけでなく、台湾の原住民の各族には昔から和解の伝統文化があるということご存じですか? 紛争を解決するだけではなく、また相手に苦痛を与えたら”責任を担う”。それが”和解”の意味でもあるのです。彼らは人と人との和解だけでなく、疫病や災害がもたらされたら、自然界や神様とも和解するのです」・・・この言葉は、日本と日本人にはぐんと重く感じる言葉だ

ところで、サイドストーリーに興味ある話がある

・ 「「社」という呼び名は、清朝が台湾を支配している時代から原住民のコミュニティをさし、漢人が多く住むコミュニティは「庄」と呼びならわした」と、初めて知った。

・ 宮古島平良港には、「ドイツ皇帝博愛記念碑」がある。1873.7.11座礁難破したドイツのスクーナー型帆船ロベルトソン号の乗組員を救助

・ クスクス社の「地元の原住民には、一度でも見知らぬ村の水を飲んだら友人としてつき合う、という作法があります」
 
・ 「「牡丹社」という名前は、一体に群生する野牡丹にちなんで、統治者としてやってきた日本人が後から付けたもの」・・・桜社、霧社もそう

・ 「1930年、中部の霧社で、「霧社事件」が起きた。苛酷な管理策をとる日本人警官、その背後にいる台湾総督府に対して蜂起したセデック族は、結果日本人134名を出草の犠牲にした」

・ 「漢人は生活条件のよい海岸沿いに住み、西側の平原で自分たちと交わり漢人化していった原住民を「熟蕃」と呼び、漢人化がいっこうに進まぬ原住民を「生蕃」と呼んで区別していた。牡丹社事件のもう一方の当事者であるパイワン族も、生蕃と呼ばれていた」






平野久美子「牡丹社事件 マブイの行方」(集広舎 2019.5.20)
日本と台湾 それぞれの和解
序章 耳を疑ったニュース
第一章 和解への旅
第二章 事件の顛末
第三章 末裔の葛藤
第四章 パイワン族の口伝
第五章 忘却の拠点地
第六章 未来への伝言
終章 マブイの行方


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