三谷太一郎「近代と現代の間 三谷太一郎対談集」

東大の政治学者である三谷氏は、学者らしい学者だ。日本の近現代の政治史についての対談を記録している。三谷氏自身の政治的主張はもちろん主題ではないが、ところどころにその片鱗がうかがわれる。しごく真っ当な見解だ。 なかでも、こんな発言が印象的だ。「安倍政権について私が一番気に掛かっているのは、今樋口さんが言われたように戦前・戦中の多くの国民の経験をあまり視野に入れていないことです。要するに、55年にできた自民党から出発していて、、それ以前のことは視野に入っていないのではないか」。 そして、憲法について、「憲法は理念的な要素がなければ成り立たないのです。理念と現実との緊張関係を失った憲法というのはあり得ないのではないかと思います。 第二項があることによって日本は初めて、理念と相反する現実と対決して平和を保ちうると私は思っています」

三谷氏や学者たちの、日本の近現代史に関する考察を、幾つかのフレーズで要約することなんて、とてもできない。 だから、興味のあるところをつまみ食いするしかなく、アトランダムに挙げてゆく。

・ 「植民地化の問題は、日本人として生きるために、つまり歴史を全体として担うために、どうしても避けて通れない問題なのです」

・ 「不況の根本的原因が日本の近現代を貫く資本主義の特殊性にあるのではないかという問題です」・・・高橋是清の積極財政、日銀引き受けによる国債発行、農村部への公共事業など、為替管理して輸出志向型経済運営・・・は、薩摩系の殖産興業方式を原型としている。国家主導の資本主義化

・ 「治安維持法は、日本の政党政治の出発点といってよい、護憲三派内閣の下で立法化された」もので、「議会制を社会主義者とか無政府主義者から防衛するという意図が非常に強かった。要するに、少数派に対して、多数派支配というものをいかに守るかが眼目だった。こうしたものが、日本の民主主義独特の歪みです」・・・確かに日本の民主主義認識は多数決に偏している

・ 「江戸時代の日本と朝鮮との関係は平和的、平等なものであったのかどうか、私は疑わしいと思っている。だからこそ、その優越感情が幕末、明治維新になって、すぐ朝鮮支配という方向に剥き出しに出てくるのではないか。そういう方向性は、ずっと一貫して変わらなかったのではないか」・・・「皇」を理由に日本政府親書を受取拒否したからと言ってすぐ征韓論になるのは確かにおかしい。

・ 「勝海舟などは、日本と朝鮮と当時の清国を結ぶ三国提携論を唱えた。(中略) それが勝の日清戦争反対論につながっていた」。勝だけではない、明治天皇も日清戦争には消極的で「この戦争は自分が始めた戦争ではない。そもそも臣下が始めた戦争であって、自分はそんなことは知らん」といった。 

・ 「征韓論から始まって、日本は江華島事件を起こし、日朝修交条規という不平等条約保押しつけ、壬午軍蘭とか甲申事変等々の一連の出来事を考えると、勝海舟的な考えがあったということも一方で事実でしょうが、大勢としては朝鮮輪日本の勢力範囲に於こうという路線は動かし難いものがあったのではなかろうか。 この路線は、山形有朋が第一議会で言った有名な「主権線」と「利益線」の考え方に顕著に表れていると思います」

・ 日清戦争後では、「もっとも変わるのは清国に対する見方です。日清修好条規は、日本が結んだ対外条約の中では唯一の完全対等な条約だったわけですけれども、その清国に対する考え方が、日清戦争後、完全に変わっていく」・・・私見では、尊敬の対象だった歴史大国が弱い軽侮対象国となった

・ 欧米は、「コルプス・クリスティアヌム(キリスト教共同体)の外側を植民地化している」が、日本の場合は、同じ儒教圏、それも、「かつての先進国」の植民地化だ。それを正当化するのは、儒教批判であり、当時の知識人が図式化したのは、「「文明」対「野蛮」です。「文明」というのは、文明一般ではなくて、要するに西洋文明です。西洋文明を代表する日本と、旧き儒教文明を代表する清国との闘い」・・・それが、現代のケント・ギルバート迄続いているわけだ、納得。

・ 原敬は、内地延長主義に固執した。「沖縄でやれたことがどうして植民地でやれないのか」

・ 3.1運動は衝撃で、自治を認めろなどの議論も出たが、「斎藤実新総督が着任して「文化政治」をやると宣言すると、すぐにそうした自治論は影を潜めてしまう。その段階で吉野作造などは、最低限朝鮮の同化政策をやめろ、差別はやめろ、言論の自由を認めろ」と言っていたらしい、素晴らしい

・ 三谷氏は言う、「いずれにしても完全な独立国を併合するというのは、異常な植民地化なんですよ」・・・だから戦後の自民党政権は、西欧のいう植民地ではなかったと否定し続けるのだろう

・ 明治天皇は憲法制定で明治維新の目的達成という認識だったらしい。「民権派のほうにもいろいろな考え方があったけれど、共和制憲法というのは見当たらない。(中略) 明治13~14年頃、全国あちこちで民間の憲法草案が起草されますが、その中にも君民共治はあっても共和政は見当たらない」

・ 「華族は衆議院議員選挙法によって選挙権も被選挙権も持たないので、大隈も板垣も政党のリーダーだけれども衆議院議員ではない。衆議院議員として首相になったのは原敬がはじめて」・・・初めて知った

・ 「日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦も、公然たる反戦論があった。日清戦争でも、「戦争前の政治的な対立を棚上げにして挙国一致というのはやはりおかしいではないか」という主張は、「万朝報」や何かにも出ています。ところが日中戦争、太平洋戦争のときにはまったくそれがない」・・・かなり異常 

・ 「明治憲法が枢密院で審議された時、伊藤が「ヨーロッパにおいては国の基軸としてキリスト教がある。ところが日本には、そういうものはない。だから日本では皇室をこれに据えるより仕方ない」と説明している。(中略) 果たしてここで立憲君主制が確立したと言えるかどうか、なお疑問が残ります」・・・天皇は神格化せざるを得ない

・ 「制度上の統合主体はもちろん天皇でありながら、天皇は現実にはそういう役割を与えられておらず、しかも天皇の下に体制の統合の役割を代行するような国家機関もなかったのです。 それが明治憲法の下での権力分立制というということの意味であって、天皇を代行する国家機関を排除するという意向が、最初から憲法起草者の間に強かった。明治維新は天皇を代行する幕府を否定するということが大きな政治的な目的でした」・・・「軍部からすると、統帥権の制度上の主体との間に中間物が介在するというのは最も望ましくない。(中略) 政党の力が衰えたあとは、第一次世界大戦の戦後体制の価値観をもっていた天皇側近を排除しようとします。 そこで西園寺、牧野以下、天皇側近のイデオロギーが天皇機関説だということになり、天皇機関説排撃運動が起き、それを軍部はバックアップするわけです」

・ 井上毅は「徹底して道徳的な命題で構成するべきだ。宗教的な命題を連ねるということになると、必ず論争があとで起きてくる。論争が起こらないような命題で教育勅語は埋めなければいけない」と、中村の原案を否定

・ 教育勅語は「「良心の自由」という国民の内面に関わる問題について、天皇が国民に直接に命令するというのは立憲の主旨に反する。(中略) 結局「君主の著作公告と見なさざるべからず」という断案を下した」

・ 松尾氏が天皇の政治責任について特に引っかかるのは、1945年2月、「近衛だけが特に「もはや敗戦は必至である。ほっておけば共産革命が起こるだろう。速に終戦工作にとりかかるべきだ」という有名な上奏文を提出した」が、天皇は棚上げした。

・ 近衛文麿と米内光政・岡田啓介・仁和寺住職の天皇退位戦略は、連合国に責任を追及されたら、退位・落飾して仁和寺に入り法皇となる、というものだった

・ 「象徴天皇制というのは、日本側の機関説論とアメリカ側の国民主権論との妥協として出てきたのだと思います」

・ 「満州事変によって起きた非常に大きな変化は、天皇自身がその主体であるところの統帥権が軍によって侵されたという認識を持ったということなのです。 (中略) 天皇にとって最大のショックは、朝鮮軍の独断越境問題です」

・ 非ドル地域・アジア地域からの原料の輸入で低コスト化した「輸出志向型経済によって日本の経済再建を図る」のは、アジア地域を共産化から守るためでもあり、「日本の経済復興は、日本だけでなくて非共産アジア地域にとっての安全保障を意味」した

・ 「「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず」「日本国政府は、日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし、言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし」。 日本はこの項をふくむポツダム宣言を無条件で受諾することによって、はじめて壊滅から免れたのです。日本国憲法はこの国際的約束に基づいて成立したことを記憶にとどめる必要がある」

・ 井上準之助が満州支配のために満鉄米貨社債を発行したかったがそれは認められなかった。その代わり、日米妥協の結果か、半島の東拓米貨社債は認められた。 これはアメリカのフィリピン支配を認める代わりに日本の朝鮮支配をアメリカが認めるということだった。これが日露講和の直前、1905年7月結ばれた、桂・タフト協定

・ ユージン・ドゥーマンは米国務省の本格的な日本専門家で、漢字6000字をマスター、読みくだしもでき、10年以上も外交官として日本に滞在していた。「その彼がポツダム宣言の原案を起草しました。生半可な知識の人が起草したわけではない」

・ 「政治教育の基軸はやはり憲法」で、「さまざまな近代憲法にもりこまれている17世紀以来の社会契約説を中心とする政治哲学を基軸にして政治教育は成り立つのであって、選挙の模擬投票とかが政治教育ではないのです」

・ 「憲法のいう「主権の存する日本国民の総意」、つまり、多数・少数を超えた、ジャン・ジャツク・ルソーが「社会契約論」の中でいうヴォロンテ・ジェネラール(一般意思)というものが究極のbelief system であり、政治社会を成り立たせる基本合意です」

・ 1916 「中央公論」「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」のなかで、「民本主義とは、吉野の言葉で言い換えると、いわゆる憲政の本義、立憲主義に基づく政治」。「議会制、権力分立制、そして人権の保障という三つの条件を備えた近代憲法に基づく政治を憲政の本義とし、これを民本主義と呼んだ」

・ 「安倍首相にとっては、ポツダム宣言は負の価値しか持たないという評価だと思いますが、それにしても、ポツダム宣言には当面の政治的意味をこえた普遍的意味があり、戦後政治の出発点になったことは間違いない事実ですので、(中略) (とりあげられなかったのは)、戦後70年を否定するにしても、談話としてはまったく無意味ではないかと感じました」

・ 「ポツダム宣言に書かれた「民主主義的傾向の復活強化」について、当時これを起草したアメリカ側がどういう歴史的な現実を念頭に置いていたかというと、私がアメリカ側の資料を見た限りでは、明らかに大正デモクラシー期の日本の民主主義的傾向の復活・強化という意味なんです」

・ 堂々と自説を主張していた美濃部達吉、佐々木惣一の「二人ともまさに、大正デモクラシー、政党内閣時代の日本を復活させることがまず大事だという認識でした。そのとき沈黙していた人たちを代弁する形で「押しつけられた憲法」という言い方を70年繰り返している経緯は、本当に知的な退廃だといつも思います」と樋口氏は言う。

・ 1957年、宮沢俊義は「岸政権下で内閣の憲法調査会が発足した時期に、法律雑誌に書いた論説のなかで憲法の「うまれ」と「はたらき」という言葉を使っています。この論文で宮沢は、今どき「うまれ」を問題にするのはよろしくないと言って、(中略) 大切なのは「はたらき」のほうだということです」

・ 「フランスは現行憲法16条で、ものすごい緊急権を持っています」。しかし、パリ同時多発テロ後の非常事態宣言は法律に基づくもので、誰も16条のことは言いださない。 「憲法というのは国民が政治を縛るためのものです。 それに対して緊急権は、こういう場合には縛られた手を自分でほどいてもいいですよということを憲法に書くということです」




三谷太一郎「近代と現代の間 三谷太一郎対談集」(東京大学出版会 2018.7.20)
はしがき
Ⅰ 日本の近代を考える
1. 明治150年 ・・・・・・・・・御厨 貴
2. 日本の近代をどう捉えるか・・・松尾 尊允
Ⅱ 政治と経済の間で
1. 戦争・戦後と学習・・・・・・・脇村 義太郎
2. 財政金融・政治・学問・・・・・神田 眞人
Ⅲ 吉野作造と現代
1. 吉野作造の学問的生涯・・・・・岡  義武
2. 戦後民主主義は終わらない・・・樋口 陽一








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