山崎雅弘「沈黙の子どもたち」

目次にあるように、日本軍の大量殺害事例として、日中戦争における上海から南京事件、シンガポール占領後の華僑殺害、沖縄戦のさなかにおける自国民(沖縄住民)の殺害を挙げ、ドイツ軍とナチの事例として、スペイン内乱のゲルニカ空爆、アウシュヴィッツ、ハイドリヒ暗殺の報復にチェコ・リディツェ村の殲滅が挙げられている。そして最後は、米軍の広島・長崎だ。

平均して40頁ほどの中に、それぞれの経緯や背景、考察など、予想外に詳細に記述されていて、良く知られている内容ではあるが、手を抜いて概略を適当に記述したものではない、濃厚な内容に仕上がっている。

印象的な議論は、ドイツと日本の比較だ。 「日独両国が「ともに」同じような誠実さで「「過去の問題」に対して誠実に対応してき」たとは言いがたい。外務省のサイトにある日本政府の説明は、単に「戦後補償」という形式的な「過去の問題への取り組み」にしか触れておらず、なぜ日本軍が戦争中に市民殺害などの非人間的行為を行ったのかという「原因の探求と反省」の努力を、政府として事実上何もしていないことから国民の目を逸らしている」。 確かに、日本には、戦争中の非人道的な行動を批判的に表現した博物館など、ドイツにあるような施設もまったくない。 

また、「現在のドイツでは、軍人もまた「制服を着た市民」であり、かつてのドイツ国防軍やSSのような「個人としての意志や権利を持たない軍隊組織の歯車の一つ」とは見なされていない」。これに対して、「自衛隊法は、上位者は常に無謬であり、間違った命令を部下に下すことはないという、かつての日本軍と同様の「上位者無謬神話」に基づいて策定されている」。 だから、間違った命令で、個人としての判断を迫られることなく、無謀な殺人を犯す危険は現在もあるということだ。

辛くも「検」の印を押され生き延びたリー・クアン・ユーの言葉が重い。「白人は生まれながらに優秀であるという優越親和を打ち立てることに成功した。 (中略) アジアの一民族である日本人が英国人に挑戦し、白人神話を打ち砕いてしまったのである。ところが日本人は我々に対しても征服者として君臨し、英国よりも残忍で常軌を逸し、悪意に満ちていることを示した。日本占領の三年半、私は日本兵が人々を苦しめたり殴ったりするたびに、シンガポールが英国の保護下であればよかったと思ったものである。同じアジア人として我々は日本人に幻滅した」

本質的な議論ではないが、気になった点を挙げておく。

・ゲルニカ・・・「戦史が教えるのは、ゲルニカ爆撃を立案・指揮したリヒトホーフェン同様、焼夷弾の無差別爆撃を行った指揮官たちはみな、日本軍、ドイツ軍、イギリス軍、アメリカ軍などの国籍を問わず、都市や町をいかに「効率的」に破壊し、炎上させられるかには多大な関心を払う一方、地上で暮らす一般市民の命は、彼ら彼女らの帰属する国が「敵国」だという理由で、考慮の対象外においていたという冷厳な事実である」

・上海・南京・・・「上海撰での予想外の苦戦と、それに伴う死傷者の増大により、日本軍の前線部隊では、中国軍に対する敵愾心が高まり、その矛先は戦場で戦う敵兵だけでなく、私服の中国人にも向けられるようになった」。 そして、「日本軍は上海戦の段階から早くも「捕虜の殺害」を行っていたが、食糧の補給がない状況下では、投降した中国兵を捕虜として帯同せず、その場で殺害する動機がさらに高まった」。強姦も多く、「そういうことをやったら、その場で女は殺しちゃえと。剣で突いたり銃で撃ったりしてはいかん、殴り殺せということだった。誰がやったのか分からなくするためだったんだと思う」

・アウシュヴィッツ・・・「第二次世界大戦におけるドイツの敗色が濃厚となり始めた1944年末になると、アウシュヴィッツ強制収容所では、ガス室での大量殺害は下火となり、そのような人道的犯罪の痕跡を残さないための証拠隠滅に、SSの作業の重点がシフトしていった」

・シンガポール・・・「日本軍は二月十二日までに同高地周辺からイギリス軍の部隊を一掃したが、翌二月十三日、第五師団歩兵第21連隊の所属部隊が、中国系市民を無差別に殺害する事件が発生した」。「シンガポールで日本軍が行った中国系市民の大量殺害は、辻や朝枝などの「ごく一部の参謀による暴走」ではなく、山下司令官以下、第25軍司令部全体の意向として実施された、軍命令に基づく行動だった」。 具体的には、こんな進め方だったようだ。「憲兵の座る机の前を一人ずつ対象者に歩かせ、顔や服装、態度などで「右」と「左」に選別した。眼鏡をかけている者は「インテリ」、身なりのよい者は「裕福な華僑」、刺青をしている者は「蒋介石に通じる秘密結社の団員」と判断されて、日本軍に反抗的な態度を示した者たちと共に、一方へ集められた。この選別作業には、地元の警察官に覆面姿で立ち合わせ、対象者の身元を証言させる場合もあった」

・マニラ・・・「マニラ市内には、米軍が到着した時点で約70万人の市民がいたと見られているが、日米両軍によるマニラ市街戦が終了する三月三日までの約一か月間に死亡した市民の数は10万人に達し、その過半数が日本軍による殺害の犠牲者と考えられている」。 住民を教会に集めて、爆薬やダイナマイトで虐殺した。「別の場所では、学校や防空壕に押し込められた市民が、手榴弾や機関銃で殺された」

・リディツェ・・・この本の表紙写真は、ヒトラーとナチが、ハイドリヒの死の復讐に、村まるごとつぶしたリディツェの記念公園内にあるもの

・沖縄・・・「鹿山とその部下は、9月8日に米軍へ降伏するまで、ただでさえ不足している食糧の供出を久米島の市民に要求し続けたが、これらの市民殺害は、結果として、市民を恐怖で支配して服従させる「見せしめ」の効果を生み出していた」。 「避難所であった壕の軍への提供が原因で死亡した14歳未満の子どもの数は、1万人以上に上ったという」。 「本土出身の日本軍人の中には、沖縄の市民を、上海や南京、シンガポール、マニラの外国市民と同じように考える人間が少なからず存在していたのである」

・広島・長崎・・・「トルーマン大統領は実質的には「脇役」にすぎなかった。 (中略) そこでの主役は、原子爆弾の実戦使用を「自らの使命」だと考えていたグローヴスと、原爆の出現以前から対日戦で焼夷弾による無差別爆撃を続けてきた軍人たちだった」


ぜひ、日本人なら読むべき本のひとつ、お薦めである。


山崎雅弘「沈黙の子どもたち」(晶文社 2019.6.25) 
軍はなぜ市民を大量殺害したか
はじめに
第一章 ゲルニカ 市街地へのじゅうたん爆撃による市民の大量死
第二章 上海・南京 兵站軽視と疑心暗鬼が生み出した市民の大量死
第三章 アウシュヴィッツ 人間の尊厳を否定された市民
第四章 シンガポール 軍司令部の命令による市民殺害
第五章 リディツェ ナチ要人暗殺の報復で行われた市民の大量殺害
第六章 沖縄 「国を守る」はずの自国の軍人に殺された市民の大量死
第七章 広島・長崎 歴史上ただ二つの核攻撃による市民の大量死
最終章 戦後の反省 ドイツと日本は、市民大量殺害とどう向き合ったか




この記事へのコメント