在日韓人歴史資料館編「東アジアのなかの二・八独立宣言」

二・八独立宣言、三・一独立運動の100周年を記念して、2019年2月2日に、在日韓人歴史資料館において開催されたシンポジウム「東アジアにおける二・八独立宣言の意義」の発表と討議にもとづいて発行されている。主催者の狙いがもしあるとれば、二・八独立宣言が三・一独立運動に直接繋がっただけでなく、五・四運動や台湾の独立運動にまで影響を及ぼしたとみたいのであろうが、それほど簡単でもないようだ。

二・八独立宣言は、「1919年2月8日、東京神田区西小川町に所在する在日本朝鮮基督教青年会館朝鮮YMCA講堂において、数百人の朝鮮人留学生の前で独立宣言書が朗読されました。宣言書は1918年の年末から翌年一月の初めに、11名が代表となり結成された秘密結社・朝鮮青年独立団によって作成されたもので」、その内容は、主に、
・併合は朝鮮人の意思ではない
・世界各国は朝鮮に民族自決の機会を与えるべき
・日本に対して血戦、徹底抗戦で臨む
といったものでした。

年譜的に整理してみる

1912 在日朝鮮人留学生の学友会設立
1914.4.2 学友会の機関誌「学之光」創刊。実力養成論「先実力養成・後独立論」にもとづく啓蒙活動
1915.1   対華21か条要求
1915.2.11 中国人留学生の大規模な反対集会
1915.7.8 中国人留学生の支援を得て中華第一楼で「新亜同盟党」という秘密結社を設立
      「日本帝国主義を打倒し、朝鮮、中国、台湾を解放するために、朝鮮、中国、台湾の同志で協力し合う」、約30名
1916.7.1 在日朝鮮人に対する体系的な視察規程が設けられた。内務省訓令第618号「要視察朝鮮人視察内規」
1917.9 新亜同盟党、弾圧の可能性を考慮して自主解散・・・運動経験と東アジアネットワークが残った
1918.1.8 ウィルソン、14か条の平和原則の中で民族自決の原則
1918.2.17 吉野作造論説「民族圧迫のたいどを執るのは、即ち大勢に逆行するもの」、「早く植民地統治の方針を改め」るべきと主張
1919.1.6 朝鮮青年独立団が秘密裏に結成される 代表11名     
三言語による宣言書の作成に着手、宋継白が宣言書を携えて朝鮮に戻り、李光洙は上海に移動して新韓青年党に合流
     ハングルの印刷は、村岡平吉の経営する横浜の「福音印刷合資会社」(「花子とアン」のモデル)
1919.1.18~ パリ講和会議、世界大戦の戦後処理、民族自決もその主たる議題
1919.2.8 「学友会の予算総会を開くという名目で留学生を在日朝鮮YMCAに召集」、崔八鏞(チェパルヨン)が宣言書を朗読した
1919.3.19 吉野作造は朝鮮人留学生とよく合い、黎明会例会に招く
1919.5.4 北京大学などの学生たちのデモ、五・四運動。山東利権の回収、「親日派」の罷免要求等
1921.2 朝鮮人労働者の「救済誘導」を目的に、在日朝鮮人最大の親日団体、総督府の支援を受けて相愛会設立

そのた、サイドストーリーとして、

・ 大日本平和協会(渋沢栄一、阪谷芳郎らの平和団体)が、朝鮮人留学生に自治を提案したのは、日本の支配に対する朝鮮人の不満をやわらげ、大規模な独立運動の再発を防ぐため

・ 二・八独立宣言に参加し、「明治学院を卒業した李光洙 は朝鮮に戻り、次世代の青年に愛国主義教育を施すべく故郷の定州にある五山学校に教師として赴任する。この五山学校の創設者こそ、後に三・一独立運動の指導者となる李昇薫(イスンフン)である」。その後、李光洙は「親日派」として評価されてゆく

・ キム・サン(張志楽)は「アリランの歌」のなかで「ヴェルサイユの裏切り」を回顧している。以後、「大国に依拠する独立運動ではなく、帝国主義的な世界秩序の変革のための民族解放運動を遂行していく」




在日韓人歴史資料館編「東アジアのなかの二・八独立宣言」(明石書店 2020.7.25)
はじめに
第一章 二・八独立宣言再考 
第二章 二・八独立宣言後の朝鮮人留学生 
第三章 二・八独立宣言と三・一独立運動におれるキリスト教
第四章 在京台湾人留学生と朝鮮人との「連携」 
第五章 五・四運動から見た「二・八」と「三・一」
第六章 三・一独立運動の残響
総合討論






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